三千二百十六(うた)短編物語(日本最大の信徒団体と、其れがかつて所属した宗派)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
五月二十日(水)
第一部 世界で著名な比較人類学者
世界で著名な比較人類学者が、学会に出席のため日本へ来た。そのついでに、石原莞爾のAIが動かすロボットを訪ねた。ロボットと云っても、本物の人間と区別できないほどの作りだ。
日本最大の信徒団体はかつて、日本の国民全体を信徒にする勢ひだったが、昭和四十五(1970)年に布教を停止した。その後、この団体は所属する宗派と二度に亘り不仲になった。
第一次紛争では、信徒団体の会長と兼任の宗派総代表を辞任した。ところが直後に、宗派の管長が亡くなり、次の管長は信徒団体と親密だったため、宗派総代表に戻させた。
第二次紛争は十二年後に、親密だった新管長と不仲になり、宗派から独立をした。
不仲にならないには、どうしたらよいか。これが比較人類学者の研究対象だった。石原莞爾は、次のやうに述べて、辞退した。
戦後に日本は飢饉や亡国の心配は無くなったので私もあの宗祖とは無関係になった、更にあの宗派は幾つにも分かれた集団どほし悪口を言ひ合ふ、内輪でやるならまだしも、無関係な宗派にまで押しかけて妨害をする、だから関はりたくない。
比較人類学者が、この研究は世界から注目されてゐます、イスラム強硬派並みです、解決すればノーベル賞級ですと云ったところ、石原の態度が今まで温厚だったのに、急に強硬になって拒否した。
そこは世界でも著名な学者である。ノーベル賞なんて言ったのが悪かったのだな、と気付き、ノーベル賞みたいなくだらないものはともかく、世界の人々の為になります、と云ったところ、石原は軟化し受諾した。
ノーベル賞評価基準を西洋に握られる故重視禁物


五月二十一日(木)
第二部 三者が揃ふ
第一次紛争時の宗派管長、信徒団体会長、石原、の三名が初めて顔を合はせた。全員がAIで、一般人を巻き込まないときに限り、その時代以降の結果を知っても構はないことになった。歴史学者は反対したが、AI学者が推進し、比較人類学者は後者に賛成した。
三人は、現代までの結末を知って参加した。管長が、いつまで時間を戻せば、分裂は避けられますか、と尋ねた。管長と信徒団体会長は、昭和五十四年の第一次紛争と、確信してゐた。ところが石原は、昭和四十年です、と答へた。
管長と信徒団体会長の頭に、嫌な予感が走った。やはり、国立戒壇か。石原が生前に信仰した国柱会の田中智学は、国立戒壇を云ひ始めた張本人だった。昭和四十年以降に宗派では、新しく建てる本堂が戒壇だとする教義に変はった。その後、紆余曲折を経て、将来は戒壇になる、現時点での戒壇である、が宗派の公式見解になった。
この曖昧さが、その後の不仲へ発展した、とする説が多い。だが、石原は異なった。
紛争が起きる原因昭和の代四十五年と五年の差あり


五月二十二日(金)
第三部 石原の提案
石原は、昭和四十五年に信徒団体が布教停止をしたことが原因とみた。それなのに、昭和四十年まで戻る必要があると発表した理由は、この年に新本堂建立の寄付を集めたからだった。そして、選挙の集票力は、この翌年辺りから頭打ちになる。
石原は、新本堂建設を機会に、会長、古参幹部の和泉さんと辻さん、の三人は出家したらどうか、と提案した。まづ、信徒団体側が反対した。石原は、管長が本人の意思で退任の後は、会長が次の管長になることも提案した。これには、管長も反対した。
石原は、信徒団体側に対し、新本堂を戒壇とするにはこの提案は受けなくては駄目だが、大布教活動を停止するときに、と条件を付けてもよい、とした。更に、一定期間の修行を終へたのちは、背広の上に輪袈裟でもよい、とした。
宗派側に対しては、管長が落慶法要などで発言することと、今の拒否反応は、まったく異なるではないか。会長は在家から直接、管長になるのではない。小僧、所化、平僧と、期間は短縮するが三年ほど、午後三時以降は信徒団体の役員としての仕事をしてもよいことにしてほしい、と述べた。
和泉さんと辻さんの承諾が必要なので、次回二人を呼ぶことで、散会した。和泉さんは、公明党参議院議員一期、信徒団体理事長を務めた。辻さんは、公明党参議院議員二期、公明党委員長、信徒団体副会長を務めた。
昭和の代四十五年の前までは布教停止を誰も思はず


五月二十三日(土)
第四部 計画決定
出席した和泉さんのAIが、家庭の事情で出家は遠慮したい、と云ふ。石原が和泉さんに、出家しても髪型が変はらないではないか、戦時中は憲兵だったさうだが、東條英機は上等兵としてなら優秀なのに首相に為ってしまった、東條は憲兵隊と繋がりがあるので私も活動を妨害されて大変だった、と語った。少し間を置いて、全員が爆笑になった。
石原が、宗派と信徒組織との両方が、必ずやってよかったと思ふ結果にします、ご安心ください、と述べた。皆が頷いた。
昭和四十年頃に出版された或る書籍に、和泉が陸軍時代に被った帽子が、禿げた原因だとある。さう云へば、石原も晩年は禿げた。
かうして、石原和尚と和泉和尚が中心の第四章は、無事終了した。思へば、信徒団体の初代会長が獄死したのも、東條が首相のときだった。
大乗は僧侶指導の意味故に団体幹部出家また好し


五月二十四日(日)
第五部 言論出版妨害問題が起きる
昭和四十五年に、言論出版妨害が起きた。国会でも、共産党が大きく取り上げた。しかしこれは、布教の好機だった。膨大な広告費をつぎ込んでも、国内全体に注目されるのは至難の業だ。石原は、さう考へたものの、この宗派には三つの欠点がある。これらを克服しないと、布教達成は無理だ。
信徒団体は、別の方法を選んだ。布教停止である。新本堂落成までは、前三後一(ぜんさんごいち)と称し、今は力を貯めるときだと説明した。獅子が獲物に飛び掛かる時に、一歩下がることだ。しかし一般的な用語ではない。浄土宗のホームページには前三後一の礼として「仏前や牌前(中略)に対し、前に上品礼を三度、後に上品礼を一度すること」とある。
新本堂の落成式を済ませると、信徒団体最高幹部の三人は、出家をした。
あり得ざる事に目的消失し信徒団体出家に光


五月二十五日(月)
第六部 新しい出家の姿
信徒団体会長が管長就任前に、宗会は宗制と宗規を改正し、代表役員を管長から宗務総監へ変更した。ここで宗制と宗規について説明すると、宗制は宗教法人法への対応、宗規は宗派内部の規則。一般には、宗制が憲法、宗規が法律、と表現される。
残りの責任役員二人は、宗会議長と参議会会長にした。宗務総監は宗会が選出。参議会は、管長と宗会が三人づつ選出。管長の任期を七年とし、前管長が不在になったときは、任期に関はらず管長は任期満了とした。重役(一名で責任役員。宗務院の権限を持たない)は廃止した。
やがて、信徒団体会長が管長になった。石原の進言を受け入れ、信徒団体幹部が出家する場合に、配偶者を一般信徒として扱ひ、俗縁を切り同居しない誓約書を、自主的に提出させた。法律上の婚姻関係は存続したが、義務権利や子供や老親との関係が複雑になることを避ける為だった。俗世では在縁、仏世では独身、と云ったところだらう。
やがて、信徒団体幹部が出家する場合に、それまでの活動歴を修行期間に加算する方法も確立した。かうなると、信徒団体出身の僧侶は非婚を守る。幼少期に出家した人は婚姻してゐるので、劣化が目立つやうになった。
それより、若い時に在家として仕事と信徒団体活動に励んだ人と、経験の差が目立つやうになり、出家希望者は、まづ信徒団体で活動するやうになった。
この方法は、他の宗派に伝播した。それぞれ信徒団体を作り、仕事にも励む。子供が独立したころに、出家するやうになった。明治維新の時に壊された僧侶非婚は、かうして復活することができた。
一旦崩壊した非婚を復活させた功績は大きく、後に新設されたノーベルAI賞を、比較人類学者と、石原、新旧管長は、共同受賞することになった。
ノーベル賞西洋基準を克服しアジア受賞は未来の課題 温暖化など
(終)

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