三千二百六(うた)多田駿自宅近く訪問記外伝
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
五月十二日(火)
近所の方の話では、多田駿さんに会ったことはないが、ご子息で大学教授がバイクで走るのを見たことがあるさうだ。ご子息は多田顕(あきら)さんで、2007年に92歳で亡くなられた。経済学者(専攻は日本経済思想史)で、千葉大学教授、大東文化大学教授を勤めた。顕さんのご子息が電機関係の会社に勤めることは、岩井秀一郎さんの本で読んだ。

ここ五年ほど、田圃の水はどこから引くのか気になるやうになった。これは昔、我が家から少し離れた田圃の水は電動ポンプだったが、地下水なのか、地下の配管で見沼代用水だったか。だから多田宅から緩やかな坂を下った突き当りの田を、詳細に観た。

  
水はここから田圃へ                 元栓か

ここの近くに別の田があるので観てゐたところ、地元の方が自転車を押して細い道を来た。数年間休耕だったが、米の値段が上がった為か、今年は植ゑたさうだ。
国破れ農作物の増産が急務となりて 多田さんも畑を作り自身精出す

反歌  近年は休耕および太陽の発電板に農地損なふ

Wikipediaによると
・死去した時の資産らしい資産は館山市の自宅のみであり、葬儀の後に残った現金は僅か2千円であった。
・中国在勤中の多田は川島芳子と親しくしており、川島が多田を「お父さん」と呼ぶ仲であった。

---------------------------ここから「良寛和尚と原始仏法を尋ねる」(二百三十四)--------------------------
・多田は、良寛に深く私淑し(中略)良寛研究の第一人者であった相馬御風と、(中略)深い交流を持った。多田が参謀次長に就任した直後の1937年(昭和12年)11月に多田から相馬に最初に書簡を送って以来(多田は、まだ相馬と面識がなかった)、多田が1948年(昭和23年)に死去するまでの間に、多田が相馬に送った書簡で、糸魚川民俗資料館(通称「相馬御風記念館」)が編纂した『相馬御風宛書簡集』に収められているものは72通に上り、(以下略)

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---------------------------ここまで「良寛和尚と原始仏法を尋ねる」(二百三十四)--------------------------
当時の二千円についてAIの回答は
昭和23年当時は急激なインフレ下で、公務員の月給が3,500円程度だった頃です。現在の感覚では、1,000円は数百万円以上の重みがありました。

当時のインフレ下で、公務員の月給に満たないが、インフレ前なら、今のサラリーマンの年収程度かな。
多田さんは亡くなるときに家の外残る蓄へ僅かにて 敗戦による経済の混乱よりは和尚に倣ふ

反歌  負け戦物が上がりて現役の蓄へ死後にほとんど尽きる
反歌  国民のほとんどすべて貧しくも平等に立ち新たな始動
反歌  始動後に不断の努力我が国は経済制覇再び敗戦(終)

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