三千百九十六(うた)二度目の岩井秀一郎「多田駿 伝」その五、館山での余生
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
四月二十八日(火)
予備役になった後は、館山へ移転した。
多田の小伝が収められている『統率の実際2』には(中略)森松俊夫『軍人たちの昭和史』とほとんど同じような記述がある。
<多田大将は(中略)館山(千葉県)に居を定め、悠々自適、折に触れ相馬御風らとの交際を通じて、名僧良寛和尚の文献などを求め(以下略)
予備役に編入されて館山へ祖国危うし自適とならず
また
館山に移り住んでからも、同志たる石原莞爾との親交は続いた。(以下略)
<(石原莞爾は)実に日本の先覚者なりしなり。この先覚者を用うる能わざりし日本は、今日の如き有様となる。
先駆者と大局者とを用ゐずに東條武藤腹黒き二者
また
汪兆銘工作など日中和平工作に従事したこともある犬養健(犬養毅元首相の三男)は(中略)
<要するに石原は天才型であり過ぎて、同じ思想の同僚や後輩というものを、始めから作っていなかった。むしろ最も忠実な同調者は、兄貴分の多田大将一人であったのではあるまいか。>
正論を発言するに集中し多数派工作苦手が故に
次に
現代でも、石原の研究者である野村乙二朗は(中略)石原の上司で本当に石原を理解していたのは、参謀次長として自分の御進講に石原軍事史を使った西尾寿造とか、同じく参謀次長(中略)多田駿くらいかもしれません。>
先覚者上に取り入る事をせず 無欲時間は無駄にせず 長く時見て茜さす日の本にとり大損害に
反歌
ごく稀に上司がうまく活用し大成功を果たすことあり
次に
多田と石原の両者に関係する人物としては(中略)高木清寿のほかにもう一人、大杉栄殺害や満洲映画協会理事長などで知られる甘粕正彦がいる。多田は館山の家で、甘粕に関する件を相談しに来た石原と高木に会っている。
(前略)高木の著書には、(以下略)
<このころ満洲では甘粕正彦氏が東條の代官的存在として君臨し、ますます暴威を奮い、将軍[石原莞爾のこと]に泣訴する異民族の反感は満洲国の将来に予断を許さないものがあった。彼が関東軍の黙許のもとに阿片密輸を行っているなどという悪風聞は私共の耳にもしきりに入って来た。将軍は(中略)多田駿大将を訪れ(中略)このまま甘粕が満洲に居れば(中略)生きては日本に帰れないものと私は見ています。」
(中略)終戦の折、彼は将軍の見透し通り自殺して人生を終わった。>
甘粕は東條英機の代官に 岸信介も代官に 二人揃ひて満洲の阿片密売噂は絶へず
反歌
多田さんは代官山を引き払ひ予備役の後海の館山
興味深い話として
石原と多田は、ともに宗教に造詣が深いという共通点もあったが、両者の宗教に対する心持ちには大きな違いがあった。(中略)多田は様々な宗教知識を吸収し、常に探求を怠らなかった点である。多田は石原から「法華経第一だ読め」と進められて読んだが「シムボルばかりで要領を得なかった」と不満であったという
法華経に対する感想は、多田さんと小生は同じだ。
多田さんと良寛和尚我が思ひ皆同じにて 石原は死後にAI此れに加はる
反歌
夏麻(そ)引く石原さんと衣手の多田さん神仏一つまとまる(終)
追記四月二十九日(水)
今回此の書を読み、残った印象を幾つか記したい。
石原の作った戦争指導課が、石原が去った後は作戦課の戦争指導班になってしまった。しかし、日華事変拡大かどうかの瀬戸際まで戦争指導班が尽力したことが分かった。
石原が、武藤は作戦課長ではなく、戦争指導課長にすればよかった、と語った。或いは、日華事変が解決し、先の敗戦は起きなかった可能性が高い。
参謀総長の閑院宮、戦争指導班の秩父宮と、皇族も拡大に反対したが、昭和天皇が近衛、東條を気に入ったことが、非拡大派の敗因だらう。
甘粕正彦について、これまで評価が分かれてゐた。しかし、とんでもない悪人であることが分かった。
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