二千九百九十(うた)短編物語「本門宗の信徒団体」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月十日(月)
第一章 牧田三郎
牧田三郎は、小学校校長を歴任した初等教育の専門家だった。教育関係の著書とともに、価値論を著はし、教育学に生かさうとした。そして造値教育会を作った。
当時は、欧米列強が世界のほとんどを植民地にした。そして清国と日本にも迫ってきた。これは鎌倉時代に酷似する。そのため或る鎌倉仏法僧に人気があった。牧田は上野公園で布教活動に遭遇し、これが必要だと感じた。当時は、世界中が宗教の雰囲気にあり、関心が向くのはごく自然なことだった。
西洋はキリスト教と国王と 二重権威と権力に 日本猿真似試みて神仏分離してみても 敗戦により薩長の作りた幕府遂に滅びる

反歌  敗戦は薩長幕府日本には非ずの気概独立心を
上野公園で布教活動をする団体は、在家主義だったが、本門宗の一本山、北派本門寺と連携してゐた。牧田は富士山の麓にある北派本門寺を訪ね、信徒団体を作りたいと言った。北派本門寺は既に連携する団体があるし、牧田は価値論を前面に出すので、価値論と当山の教義は異なるとして、申し入れを断った。
丁度そのころ、北派本門寺とはかつて兄弟寺の関係にあった石山寺の信徒が、牧田に信仰を薦めた。牧田は、渡りに船とばかり一旦は飛びついた。このころ石山寺は本門宗から独立し、別の宗派を立てた。

第二章 一つの本山ではなく、複数に変更
牧田は、造値教育会の会員に石山寺の信徒団体としてやって行きたい、と相談した。会員は牧田の教育論と価値論に陶酔する人たちばかりなので、異論は無かった。しかし入会間もない会員が、石山寺の教義を調べてからのほうがよくないでせうか、と遠慮がちに発言した。別の宗派に分かれるくらいなので、兄弟寺以上の相異がある筈だ。牧田など皆がこの発言に賛成し、次回までに調べることにした。
次回の会合で、この宗派は法主絶対を主張するが、それなら本門宗の七本山すべてが、昔から石山寺に随ふはずで、それをせず八つに分かれるのは法主絶対ではないからだ、となった。板曼荼羅も絶対とするが、後世の偽作だとする意見も出た。今はよいが布教が進み、法主に慢心や身内依怙贔屓をした場合にどうするか、も出た。
明治維新以降は僧侶妻帯なので、将来必ず問題が起きるとする意見も出た。そもそも北派本門寺と連携する団体は、元は僧侶だった人が妻帯問題をきっかけに還俗し、信徒団体を作った。
そのため、石山寺ではなく、本門宗七本山と平等に付き合ふことを決定した。本門宗との話し合ひで、北派本門寺は既に提携する団体があるので除外し、残りの六本山と提携することになった。

第三章 六本山
牧田は、上野公園の布教に出会ふまでは、神道系の身心鍛錬会に参加して来た。そして、日本の戦争が避けられそうにないことを知ってゐた。今こそ国家諌暁の時だ、と布教活動を開始したが、なにぶん人数が少ない。会員百名に到達したところで、敗戦を迎へた。
牧田は七十歳後半に入ったため、理事長の戸山に後を託し、引退した。戸山は会の名を造値信仰会と変へて布教に励み、会員が徐々に増へた。もし戦時中に宗教弾圧があり獄死者でも出れば、皆のやる気は違っただらう。しかし、さうではないので、増え方はゆっくりだった。
暫くして牧田は、戸山の布教方法が牧田の目指した目的とは異なることに気付いた。牧田は国家諌暁だ。戸山は現世利益だ。利益を目指して信仰しても、貪瞋痴を越えられないばかりか、逆に貪瞋痴が強くなってしまふ。
牧田は、もはや八十歳の人間が出る幕ではない、と悟った。亡くなった時は、造値信仰会には知らせなかった。葬儀の参列者は、身内のみの寂しいものだった。
戦前は国家諌暁終戦後現世利益に老学者去る
(終)

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