三千百八(うた)楞伽経
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
二月五日(木)
達磨大師の門流は、楞伽経を所依の経典としたので楞伽宗と呼ばれた。そこで楞伽経を調べることにした。楞伽はランカの音訳で、ランカ島、現在のスリランカである。
中村元「現代語訳 大乗仏典五『華厳経』『楞伽経』」には
西紀四世紀(中略)に成立したと考えられていますが、他の学者は六~七世紀に作成されたと想定しています。そこに説かれている思想内容は種々雑多でまとめ難いのですが、唯識説をたぶんに取り入れた如来蔵思想であるということがいえるでしょう。バラモン教の哲学思想の影響をたぶんに受けています。
スリランカは、紀元前三世紀に仏法が伝はり、大寺派となる。しかし紀元前一世紀から紀元後四世紀に掛けて、大乗仏法を受け入れた無畏山寺派が現れ、両派の争ひの中で更に、同じく大乗を受け入れた祇多林寺派も現れる。
十二世紀になって大寺派が正統とされ、他の二派は途絶へる。楞伽経が作られたのは、大寺派が正統となる前の、大乗と混在した時代だ。中村さんの現代語訳では
そのときに世尊は(中略)竜王において七日間説法をし、終わってから大海より姿を現しました。(中略)目をあげて(中略)楞伽大城を見ました。そこで微笑をして、
「むかしもろもろの如来、応供(敬われるべき人)、正等覚(さとりを開いた人)は、みなこの城において自分のさとった道理を説きました。
このみずからさとった道理というものは、もろもろの外道(中略)、あるいは二乗(括弧内略)、そういう人々が修行によって達することのできる境界ではありません。
従来と大乗の相違は、経の相違で、世界の認識方法の相違だ。それなのに、従来の修行者を二乗と称して、外道と同じに扱ふ、その独善がここに見られるのは、スリランカで大寺派と闘争を八世紀ほど続けたためだらう。
達磨大師が楞伽経を所依としたことは、達磨大師がスリランカと関係するのではないか。途中を飛ばし、後方で中村さんは
仏がさまざまな形容で如来蔵を説くのは、無我と聞いて惧れをいだく凡夫を導くためであり(以下略)
如来蔵は方便だ。
釈尊はさとりを開いてから涅槃にいたるまで種々に説法したが、そこで説かれたものは何もないといいます。(中略)この「一字不説」(一字も説かなかった)という考えは、まさに禅の境地に通じるものです。
ここで、不立文字と結びつく。
唐土へ達磨大師が東進し出自は不明 楞伽経所依とするには訳があるかな
反歌
楞伽経不立文(もん)字とスリランカ二つを結ぶ坐禅経典(終)
追記二月六日(金)
常盤義伸「ランカーに入る」は、楞伽経全文の日本語訳及び研究である。まづ
「宝経」というのは、漢訳の際につけられた敬称と考えられる。
それで安心した。宝経は、パーリ語経典で小部のスッタニパータに収められ、吉祥経、慈経とともに、最もよく唱へるお経である。同名なのは、漢訳の偶然だった。
梵語表現には、動詞の命令形など、パーリ語に近いものがある。
楞伽経が、従来大乗混在のランカ島で作られたことが分かる。(終)
「原始仏法を尋ねる」(二百十一)
「原始仏法を尋ねる」(二百十三)
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