三千八十八(朗詠のうた)最新の歌論(1.歌会始、2.近代短歌論争史明治大正編)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
一月十五日(木)
前回の歌論で述べたが、作者が美しいと思ふ歌が美しい。歌会始に応募された方々は、入選佳作非入選を問はず、美しいと思って応募されたのだから、それを批評してはいけない。今年から、歌を批評することは避けることにした。
詠み人が美しとする歌が佳し云ひ争ひは醜き文へ


一月十八日(日)
「作者が美しいと思ふ歌が美しい」と正反対なのが、本日借りた篠弘「近代短歌論争史明治大正編」であった。篠弘さんではなく、登場する人々の論争が醜い。前回の歌論で引用した、山本健吉「短歌」にこの本が載ったため、そのとき借りる手続きをしてしまった。
第一章「尾上紫舟をめぐる短歌滅亡論議」に始まり、三十五の論争が載る。とは云へ、読む気にならず、このまま終了すると短すぎる。そこで序説を引用すると、子規が
是迄は新派を一団として旧派に抵抗する必要も有之候へども、旧派声をひそめて事実上大略降服したる今日は、新派同志の喧嘩こそ必要と存じ候」

旧派は声をひそめたのではなく、相手にしなかったのではないか。論争や喧嘩は、文章が荒れる。そんなものを書いたのでは、歌にも影響する。文章が直接影響することもあるし、精神状態を経由して影響することもある。
旧派が減少したのは、過去のやり方を踏襲するため、魅力が無かった為であり、論争の結果ではないだらう。
根岸短歌会の写実主義と新詩社の浪漫主義とは、(中略)あきらかな対立意識をもったまま、明治四〇年代における自然主義の展開のなかで、あらたなる世代による(中略)論理的な抗争に期待しなければならなかった。

と云ふことは、古い世代は感情的な抗争だったのだらう。
歌壇における自然主義の萌芽の一つに、金子薫園や尾上紫舟らの叙景詩の運動がある。(中略)明星調を下劣猥雑であるとして、もっぱら自然を自然として写すことを提唱した(以下略)

この主張なら、小生は自然主義だ。
一方鉄幹は(中略)「見よ、無益なる自然主義の論議に日を費やす諸君、(中略)性欲の挑発と、安価なる涙とを以て(中略)自然派の悪文小説は市に満つ。

しかし吉井勇や北原白秋の脱退を促し
勇は、あらゆる恋愛の情緒と官能陶酔をもとめ、白秋は、異国趣味や頽唐的官能に魅惑を感じ、(中略)浪漫主義がやり残した課題として、日本自然主義の領域に属する動きであったのである。

欧米猿真似をするから、かう云ふ事になる。猿真似をすると、悪いところだけが似るのは、戦前なら軍国主義、戦後はリベラル即ち単純唯物論で明らかだ。
古の歌の詠み方堕ちる故 元へ戻すは訳あるも 西の洋より入り来る分けるを倣ひ更に堕ち行く

反歌  音の数を合はせるうたは唐土と大和のみにて西の洋無し(終)

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