三百二、顕正会(その四、京都訪問)

平成二十四年
十月八日(月)「要法寺」
顕正会に入会するまでは寺社を参詣すると手を合はせ賽銭を入れた。九月一日以降は手を合はさず賽銭も入れない。謗法厳戒は大石寺門流の特徴である。
京都に到着後、御所裏の琵琶湖疏水を見た後に要法寺に行つた。東の大石寺、西の要法寺と称されるが、大堂が二つあるだけの小さな寺院である。堂が閉まつてゐるのは、謗法の人が参拝したり賽銭を上げるのを防ぐためだらう。私は見るだけに留めたがもし寺務所に寄つて参拝したらどうなるだらうか。
要法寺と大石寺はかつて両山一致の関係を結んだことがあつた。そして要法寺出身の僧侶が大石寺の貫首に連続して就任した。要法寺はこのとき造像だつた。今の要法寺は大正年間に造像を撤廃し十界曼荼羅を本尊とする。だから参拝しても問題はないはずだ。
大石寺の言ひ分はたぶん、貫首が認めれば要法寺とは同盟関係でも、貫首が認めないときは謗法だといふことだらう。しかし同盟関係のときに要法寺は造像だつた。いまは十界曼荼羅である。問題はないはずだ。しかし私は二つの堂を外から見るに留めた。

十月九日(火)「正信会の二つの寺院」
組合の集会会場と宿泊のホテルは歩いて10分ほどだが、その中間から路地を1本入つたところに九条住本寺といふ大石寺系のお寺がある。第三祖日目は天奏のため京に向ひ美濃の垂井で遷化した。お供をした日尊が入洛し後醍醐天皇に天奏し、寺地を賜り上行院を開いた。日尊の弟子の一人が上行院を継ぎ、もう一人が住本寺を開いた。天文法乱で両寺を含む身延系など21本山が焼失し京都から追放された。十二年後に帰京を許されたときに両寺は合併し要法寺となつた。後年になつてその住本寺の名前を引き継いだのが九条にあつた住本寺である。住本寺は明治年間に東山区に移転し、跡地は出張所となつた。戦後創価学会の折伏で信徒が増へたので昭和49年に本堂を新築し九条住本寺と公称した。
今から25年ほど前に住本寺と九条住本寺に参拝したことがある。どちらも正信会である。片方の寺院では夜の勤行にも参加し藤川法融師が導師だつたことを今でも覚へてゐる。九条住本寺だつたと思つてゐたが、表札に秋山教円と書いてあつた。二五年前に参詣し題目三唱だけしたのが九条住本寺、夜の勤行にも参加したのが住本寺だと記憶がよみがえつた。

十月十日(水)「九条住本寺」
住本寺と九条住本寺は正信会に属し宗門から顰斥(ひんせき、僧籍剥奪)処分を受けた。かういふ寺は参拝したくなるのが人情である。宗門が明渡し訴訟を求め、正信会が反論し裁判では現住職の間は明渡しできないことになつた。住職が亡くなると寺院は宗門に返還しなくてはいけない。そして住本寺は数年前に返還された。
大会二日目の朝、六時に九条住本寺に行つた。朝の勤行は普通は七時だが早いといけないからである。しかし扉は閉まつてゐた。寺の付近は木造の古い民家が多く昭和三十年代の懐かしい光景なので見て回つて時間をつぶした。創価学会の池田元会長の写真展のポスターを貼つた家が五十軒に一軒くらいあつた。かつては九条住本寺に参拝したのであらう。その後、正信会が宗門から分かれ、創価学会も宗門から分かれた。分かれた者どおしで交流すればよいのにそれは今でも実現できてゐない。
七時に寺に戻るとやはり閉まつてゐた。住職は高齢なので病気かも知れない。心配なことである。すぐホテルに戻つた。

十月十日(水)その二「在日韓国朝鮮人の街、その一」
大会一日目が終了の後、立食形式の交歓会が開かれた。労組の悪い癖で、酒を飲み始めると舞台を見ず雑談を始める人が99%である。ブラジルから来日して自動車部品工場で働く仲間、韓国の労働組合で今回の大会のためにわざわざ来日した人達、会場近くの在日韓国朝鮮人などが出演するのだから参加者はもつと舞台に注目すべきだ。だから私は雑談に懸命な福島みずほ社民党党首などを尻目に最前列で韓国から来た人達といつしよに床に座つて舞台を見た。在日韓国朝鮮人の出演者のテーブルにも行つて親しくお話を伺つた。せつかく地元の在日韓国朝鮮人の出演者がゐるのだから、そのままにしては労組とは浮いた状態で参加して終つてしまふ。もつと労組関係者は在日韓国朝鮮人の出演者と親しく交歓すべきだ。
二日目の大会終了後、オプションで伏見の酒造巡りだとか、地元の在日韓国朝鮮人の街の差別されたことや地元行事などのビデオを公民館で見るなどがあつた。私はぷらつとこだまの関係で申し込まなかつた。
大会が終つた後、もう一度九条住本寺に寄つた。やはり玄関は閉まつてゐた。墓地の三師塔、歴代住職の墓()に参拝し写真を撮つた。終つて出ようとすると偶然、在日韓国朝鮮人の街のオプションに参加した人達がぞろぞろと歩いてゐる。「こんにちわ」と挨拶しても、ちらつとこつちを見るだけでそのまま歩き続ける。まさか寺から出てきた人が労組関係者だとは思はなかつたのだらう。うつかり返事をして創価学会の折伏攻勢に晒されたら大変だと思つたのかも知れない、といふことはないと思ふ。ともかくこつちは札幌と大分のメンバーと案内する京都のメンバーだと判つてゐるのに向ふは私が判らなかつた。

十月十二日(金)「在日韓国朝鮮人の多い街、その二」
それでも最後尾の人が私に気付いて九条住本寺の写真を撮つたので、寺の説明をした。彼らに付いて最後尾を歩くと、向うから来たおつさん五人くらいの一人が「何や、お前ら」といふので私が、労組の大会の帰りだと説明すると「ご苦労様です」と言つて分かれた。労組のメンバーは韓国朝鮮料理の焼肉屋に入つたのでそこで別れた。
この辺りは住宅地で穏やかな街である。だから私も九条住本寺に朝六時に行き7時に戻るまでの間、町の中を散歩した。創価学会のポスターを貼つた家が十軒くらいあつた。だからと言つて観光客が大挙して訪れて、ここが在日韓国朝鮮人の街です、と写真を撮りまくつたら失礼である。我々は労組には見へなかつたのだらう。しかし労組だといふと「ご苦労様です」と答へたので、我々に期待の心はまだ残つてゐるのだと感じた。

十月十三日(土)「京都の街」
京都は一千年間都だつたので古寺が多い。しかし京都は中小企業ばかりの街だと地元では認識されてゐる。しかしそれは逆で東京が異常になつたのである。東京でも江戸時代から市街だつたところは史跡が多い。新興住宅地やオフイス街は史跡のない唯物の街である。
かつては京都に進出した日蓮門下は次々に造像などに染まつた。現在の身延派の大部分は京都一致派の流れであり、身延山久遠寺、池上本門寺系統は少ないのである(創価学会教学小事典)。
その京都が今では、東京といふ日本とは言へない都市から見れば見劣りする。かつての敵は僧兵を擁したり鎌倉仏教を弾圧する他宗だつたが、今の敵は唯物経済主義である。京都の美しい街並みはいつまでも伝へなくてはいけない。京都だけではなく全国の美しい街並みと山河は構成に伝へなくてはいけない。破壊すべきは東京の日本とは思へない醜いビル街である。


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