三百二、顕正会入会記(その三、いつか通らなくてはならない関門)
(この章では大聖人、上人等の敬称は省略)

平成二十四年
九月二十九日(土)「一、戒壇の御本尊」
6000万人を目指すとなると、いつかは通らなくてはならない関門が3つある。まづは大石寺に秘蔵されてきた戒壇の御本尊である。阿部日顕前管長は教学部長の時に次のように発言した。
戒旦の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
本物か偽物かと聞かれれば、我々には判らない。古来、戒壇建立の時に奉安すると伝へられてきた。もし日蓮の作ではなかつたとしても問題はない。戒壇建立を願つて日蓮のご真筆を組み合はせて時の貫首が作り、後世に直作だと伝へられた。当時と今では時代背景が異なるから問題はない。大乗経典は後世の作だと科学的には立証されたが大乗仏教界で問題にならないのと同じである。
故細井日達管長は、戒壇のご本尊のある所が事の戒壇だと言つたがこれは正しくはない。事の戒壇を作つたときに奉安する御本尊が戒壇の御本尊であり、それは大石寺に古来伝へられた戒壇の御本尊だと我々は信じてゐる。それが保田妙本寺の万年救護の本尊になるか、日代や三位日順がいふように本尊の図の如くなるかも知れない。国立戒壇ともなると専門家の年代鑑定や、古文書専門家による文書の真偽鑑定や古文解釈が問題になる。しかし最後は日興上人の言はれる如く、時の貫首と衆議で決めれば解決する。信徒数の一番多い大石寺の戒壇のご本尊になると我々は期待してゐる。

九月三十日(日)「二、血脈(けちみやく)」
大石寺では歴代貫首は日蓮からの血脈を受け継いだと主張する。だから貫首が代替りのときは血脈相承の儀式を行ふ。ところが66世細井日達管長は血脈相承の儀式を行はず遷化(亡くなる)した。その直後阿部日顕総監が前年に秘密に相承を受けたと自己申告し67世に就任したため、後の正信会や創価学会の離脱につながつた。
阿部日顕の他にも今までに血脈の断絶が二回在つた。一回目は第三祖日目が亡くなつたときであり、大石寺では日道と日郷の争ひが起こり、北山本門寺では日代貫首が追放された。もし第4世日道に血脈があれば日道と日郷の争ひは起きないし、日代が追放されることもなかつたはずだ。日代の追放について大石寺側は、北山本門寺は大石寺とは別の寺だといふだらうが、もしそうであれば大石寺とは別の信心が当時から可能だつたことになる。当時から大石寺の貫首に従はなくてもよいことになる。
大石寺の血脈とは、貫首を盛り上げるために大石寺が長年に亘り作り上げたよき伝統と考へるべきだ。二回目の断絶は65世堀米日淳が遷化した後に起きる。遷化の前日に日淳師の東京大田区の実家で細井宗務総監に血脈相承を行つた。しかし血脈相承は新貫首が就任の後に前貫首や元貫首が見守り、前貫首と同じ水準になつたときを以て完結する。だから前貫首や元貫首のゐない細井日達管長は昭和40年あたりから、それまで弟子は各住職の弟子だつたのにすべて管長の弟子にして総本山の寮に集団で住まはせたり、観念文から天照大神、正八幡大菩薩を除くなど、これまでの伝統の変更を重ねた。なを顕正会も観念文に天照大神、正八幡大菩薩がないが、これは初座を行はないのだから仕方がない。初座で東天に向かひ、ニ座以降で戒壇の御本尊の方角を向くといふのは無理である。

宗制宗規には前管長は血脈断絶に備へると書かれてゐた。つまり前管長がゐないときは現管長は引退しろといふことだ。これに従はず新興宗教の教祖と化した日達管長が血脈を持つたまま亡くなつたのは当然の結末であつた。
江戸時代に大石寺では要法寺出身の貫首が続き、つひに造像が始まつた。それを26世日寛が撤廃しその後二度と造像が現れなかつたことを考へれば、平時にあつては血脈は重要である。
これは日本の伝統でもある。平時には皇室を敬ふし武力で領土を獲得した殿様でさへ敬ふ。しかし南北朝や幕末のときは異なることもある。

十月四日(木)「宗祖、二祖の時代に戻る」
富士と身延の違ひは次の表にまとめることができる。
 富士身延
読経方便品、寿量品方便品、寿量品、その他。または全品
本尊十界曼荼羅造像
袈裟衣薄墨色袈裟
謗法(他宗の意味)謗法厳戒謗法容認
神札謗法の国では正法の者が立てても禁止他宗の神社も容認

宗祖入滅ののち六老僧のうちの日興以外は、佐渡以前の教義に後退した。だから身延は宗祖入滅時に帰るべきだ。
一方の富士門流は極めて少数である。身延の末寺が5000に対して富士は創価学会出現以前は八本山を合せて250であつた。その中で大石寺は61に過ぎなかつた。そのため大石寺は宗派意識が強い。今風に言へばセクト意識である。大石寺以外はすべて謗法だと主張する。この宗派意識は少なくとも二十三世日啓のころまではなかつた。
富士も身延も宗祖入滅の時点に戻るべきだ。

十月五日(金)「三、日寛の著書の扱ひ方」
身延はその後、京都進出の影響が大きく長い年月を掛けて造像、色袈裟、謗法容認に至つた。富士は三祖遷化の後は八本山に分裂し、八本山の一つ京都要法寺は造像、法華経全品読誦を認めるに至つた。そして要法寺出身の僧侶が大石寺の貫首を十五世日昌から二十三世日啓まで八代連続した。安土桃山時代から江戸時代までの百年間である。特に十七世日精は造像を行つた。
二十二世日俊は要法寺出身だが大石寺の造像を撤廃した。そして二十六世日寛が六巻抄を著した。「此の書六巻の師子王あるときは国中の諸宗諸門の狐兎一党して当山に襲来すといへども敢て驚怖するに足らず尤も秘蔵すべし尤も秘蔵すべし」とあるように造像論や全品読誦が現れてもこれを打ち破る自信作であつた。その功績は9世日有とともに中興の祖と呼ばれる。事実これ以降大石寺に二度と造像は現れなかつた。
そればかりか要法寺でも造像撤廃が行はれ、身延系の京都十五本山がそれを異流儀として寺社奉行に訴へたため寛政法難が起きた。要法寺は大石寺に助けを求めた。造像撤廃は大石寺の流儀で異流儀ではないと奉行所に答へるべきだつた。ところが巻き添へを恐れて要法寺開山の日尊は日興の弟子だが入洛後の消息は不明などとあいまいに返答をした。これ以降大石寺と要法寺は関係が断絶した。要法寺は京都十五本山の要求を受け入れ造像を再開した。このとき大石寺と関係が悪化したのは要法寺だけではない。大石寺はセクト化が進んで七本山すべてに受け入れ難いものになつた。
日寛の著作は造像論が出たときの反論法であり、信心は宗祖、二祖の時代に戻るべきだ。

十月六日(土)「創価学会の折伏停止の理由」
信徒六千万人を目指せば、信徒数が四千万人に至つた時点でこの三つが問題になる。あと大乗非仏説も問題になるが、これは大した問題ではない。創価学会は言論出版問題で大変な事態になつたが、信徒数1000万人だからはるか手前の話であつた。
創価学会は言論出版問題で昭和四五年に折伏を停止した。停止した理由について、日達管長の時代に広宣流布を達成しようといふ創価学会の発言が日達師と創価学会を狂はせたことと、欧米に海外布教したことが敗戦意識と西洋被れ意識により国立戒壇放棄に繋がつたとこれまで思つてきた。しかし顕正会に入会し先月初めて判つたことは、折伏を停止した理由は2つある。2つが判つただけでも顕正会に入会した価値があつた。
1つ目は共産党や顕正会(当時は妙信講)への盗聴である。もしこれらが明るみに出れば当時は時効前だから上層部の重罪は免れなかつた。2つ目は正本堂の御供養が予定額の十倍の300億円(当時、今にすれば3000億円か)集まつたことである。これで宗門も学会も感覚が狂つた。「蔵の宝に執着することなく」といふ訓諭(管長が宗内一般に発する勅語や御教書のようなもの)が発せられ、学会員は家具を質屋に入れたり生命保険を解約した。これで宗門と学会に罪悪感と慢心の混在したものが生まれた。「蔵の宝」といふ言葉は一般の人には判り難い。これは崇峻天皇御書の「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」に因む。学会幹部の、ご供養したお金は何十倍にもなつて帰るといふ言葉に会員は無理をしてお金を工面した。

十月七日(日)「大石寺の主張に合はない人は多い」
私は大石寺宗門側僧侶のいふことは嫌ひである。「猊下(大石寺貫首)に信伏しないと例へ日蓮大聖人直筆の本尊を拝んでもスヰツチの切れた電球と同じで役に立たない」。かういふ説法を平気でするからだ。これだと大石寺以外の七本山はおろか、身延、禅宗、真宗など他の仏教、キリスト教、イスラム教、その他すべて世界人口の99.99%は堕地獄である。ほとんどの人を救へない教義があつてよいはずはない。
かういふことをいふ僧侶は、日達管長の時代に管長の弟子として総本山の寮で育成するようになつてからである。その前は大石寺派の末寺は61だから、まさか世界中で日本の61ヶ寺の信者だけが成仏してそれ以外の世界中の人類は地獄に堕ちる。そんな説法をするはずはなかつた。

十月八日(月)「セクト意識から変換を」
九世日有の化儀抄に次の記述がある。
六人上首の門徒の事、上首帰伏の時は元より六門徒なるが故に門徒を改めず同心すべし、さて門徒の先達未だ帰伏せざる者の衆僧檀那に於ては門徒を改むべし等云云。
六老僧の門流の貫首が帰伏したときはその門流はそのまま受け入れる。貫首が未だ帰伏しないときは僧侶や信徒は組織を変更して受け入れる。この寛大さが必要である。今の大石寺のように猊下に従はないと謗法といふことになると、池上兄弟も四条金吾も切り捨てられてしまふ。五老僧は佐渡以前にまで教義を退化させた。だから日興は先師と違ふと批判してゐる。しかし批判はしても謗法だとか堕地獄だとかは言つてはゐない。


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