三千二十七(うた)短編物語(律を破壊した者は誰か)
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十二月七日(日)
第一部 僧侶妻帯
永禅和尚が、越後の円通寺へ来た帰りに、良寛和尚の住む五合庵へ寄った。そして律の話が出た。さて、永禅和尚は、未来を予言する力を身に付けてゐた。予言はできるが、何時の時代に、何処で起きるかは、神々との約束でできないらしい。
永禅和尚は、唐土の先の越南から暹羅(シャム)へ行き、、緬(めん)甸(でん)から来た僧から、その術を授かったとも思はれるが、国を出ることは御禁制なので、内心は思ったとしても、誰として訊く者はなかった。良寛和尚自身も、一部の人達から唐土へ渡航したのではと思はれたが、訊かれることはなかった。
永禅和尚が、何時の日か僧侶が妻帯するやうになる、と予言した。何時の事か、どうしてさうなるかも分からないらしい。或いは、門徒宗が原因ではないかと、親鸞を批判した。
良寛和尚は、妹が門徒宗のご院家(一般の宗派の僧侶に当たる)へ嫁に行ったので、次のやうにかばった。門徒宗は、僧侶ではなく、非僧非俗と自称するので、構はないのではないでせうか。
代はりに、と云って戸を開けて誰もゐないことを確かめたあと、東照権現は仏法を敬ふお方ではあったが、寺請け制度で僧侶が堕落し、更に行き着く先が僧侶妻帯ではないでせうか、と小声で云った。
第二部 最澄
これは永禅和尚も同感だった。お寺が寺請け手形を発行し、これが無いと転居や所帯を持つことが出来ない。旅の時に関所で取り調べるのは、入り鉄砲と出女が建て前だったが、実際は男も手形を持たないと取り調べに時間が掛かるし、疑ひをかけられたときに面倒だ。
信心とは関係なく、寺請け手形を発行する仕事は嫌だった。或いは、日本から仏法が消えるのは、徳川様が倒れる時かも知れない、と思ふこともあった。
しかしこの話題は長く続けるとまづい。しょっちゅう戸の外を見に行けばよいが、そんなことはしてゐられない。話題を変へて、比叡山の最澄が悪いのではないでせうか、と云った。
これは二重の意味があった。永禅和尚が所属する律宗の戒律を壊したのが最澄だし、律宗とは関係が深い真言宗と仲が悪かったのも最澄だ。真言宗のお寺で塔頭を貸してもらふ良寛和尚も、同感だった。
山門(延暦寺)と寺門(園城寺)が、武力行使や焼き討ちを繰り返したことがあったし、二つの本山が源氏と平家、北朝と南朝に分かれたこともあった。争ひの最初は、最澄が亡くなったあと、義真が跡を継ぎ、義真は遺言で次の座主に円修を指名するが、これに最澄の直弟子らが反発し円澄が天台座主になった。このあと、円仁派と円珍派の争ひへと続いた。
第三部 永平寺の争ひ
この話に良寛和尚は、耳が痛かった。曹洞宗でも、道元和尚が亡くなったあとに、同じ事が起きた。孤雲懐奘和尚が二代目になり、そのあと徹通義介和尚が三代目になったが、永平寺内で争ひが起きて五年で追ひ出された。八年後に再び永平寺を継ぐが十三年後にまた追ひ出され、大乗寺を開山した。その弟子に瑩山紹瑾和尚がゐて、総持寺を開山した。曹洞宗に総本山が無く、大本山が永平寺と総持寺と二つあるのは、さう云ふ事情による。
良寛和尚は、曹洞宗を脱退した身だ。唐土式に、宗派は学派との立場だった。だから真言宗や門徒宗など、どの宗派とも交流した。しかし師匠の円通寺第十世国仙和尚は、全国和尚の弟子、全国和尚は円通寺初代良高和尚の弟子だった。良高和尚は、大乗寺の第二十八世を退ひた後に、円通寺の開山となった。良高和尚は、黄檗宗も学んだ。
円通寺良高和尚の門流は良英良機良筍と 開山二世と三世まで少し離れて八世には 良を通し字にするものの そのあと今に至るまで主な弟子たち名乗り無く 良寛和尚一人を除く
反歌
円通寺継ぐの期待に良の字を付けるも別の険しき道に

円通寺歴代(ダブルクリックで拡大)円通寺ホームページより
第四部 その後
二人の和尚は、妻帯が行なはれたあとどうしたらよいかを話し合った。門徒宗みたいに非僧非俗と名乗る。僧になりたい人は、唐土大陸か朝鮮半島へ渡航し、比丘戒を授かって帰国する。決められた人数を越えたら、大和、下野、筑紫に戒壇を設ける。これがよいのでは、となった。
ここでもう一つ、比叡山にも比丘戒の戒壇を設けたらどうか、と話が進んだ。延暦寺が拒絶したときは、信長公を再来させて焼き討ちにしてもらふか、と冗談を言ひ合って大笑いひし、永禅和尚は五合庵を後にした。(終)
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