三千一(朗詠のうた)短編物語「真言と律」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月十七日(月)
第一章 良寛和尚と永禅和尚
真言宗の越後円通寺に、永禅和尚が訪ねて来た。良寛和尚の住む塔頭の五合庵ではなく、円通寺本堂に用事があった。とは云へ、五合庵に寄らないはずがない。久しぶりの来客に、良寛和尚は大いに喜んだ。
永禅和尚は律宗の僧だ。律宗と真言宗は関係が深い。そもそも唐土では、宗派は学派だ。律を学ぶ僧と、真言を学ぶ僧と、両方を学ぶ僧もゐる。そして、すべての僧が、律宗が学ぶ四分律を受ける。
日本は事情が異なる。戒律が国内へ来る前に、仏像とお経が入ってきた。その状態が長く続き、戒律が不充分なことに気付き、鑑真和尚ほか授戒に必要な人数の僧を招聘した。ところが、戒律の無い状態に慣れてしまったために、戒律を受ける僧と受けない僧が現れた。
鑑真和尚が所持する四分律とは、天竺の法蔵部の律蔵で、四つに分かれるのでさう呼ばれた。唐土にはこのほか、化地部の五分律、説一切有部の十誦律、根本説一切有部の根本説一切有部律、大衆部の摩訶僧祇律がある。シャムには、天竺の南に在る錫蘭(せきらん、現在のスリランカ)の律蔵もあるさうだ。
そのやうな中で、最澄が唐土へ行き、帰国後に唐土とは逆をやり、四分律を捨ててしまった。そして今までの奈良仏法と敵対を始めた。一方で、同時に唐土へ行った空海和尚は十誦律を重視し、奈良仏法とは仲良くした。
良寛和尚と永禅和尚が、律蔵の話を始めると、留まるところを知らなかった。
日の本は東の果てに在る故に ほとけの教へここまではすべては来ずに伝はらざるあり

反歌  唐土やそのほかの国今までの教への上に新しき立つ

第二章 禅宗
臨済宗の栄西和尚は、戒律を尊重した。栄西和尚の弟子明全和尚は東大寺で具足戒を受けた。明全和尚といっしょに渡航した曹洞宗の道元和尚は不明である。或いは、唐土で受けたのだらう。
黄檗宗は、江戸時代に日本へ入ったので、具足戒は守りさうだ。良寛和尚の修行した円通寺は、黄檗宗とも関係が深かった。

第三章 律宗と真言律宗
鎌倉時代に、真言宗の叡尊が律宗の覚盛とともに、具足戒復興を目指した。その出発点は空海和尚にある。そして覚盛の依頼で叡尊は、奈良七大寺の一つで廃寺状態だった西(さい)大寺を再興した。戒律の復興とともに、食ふに困る人や病人の救済にも努めた。
叡尊の弟子の一人に忍性がゐる。忍性は、極楽寺を開山、東大寺の大勧進に就任、摂津の四天王寺別当に就任、鑑真を顕彰する絵縁起を唐招提寺に寄進、とその行動力は驚くばかりである。

第四章 良寛和尚と具足戒
日本の宗派は教団で、特に江戸時代は本山末寺の関係に厳しかった。そのやうな時代に、良寛和尚が奈良仏法で具足戒を受けた記録はない。
もし渡航したのなら、唐土で律を授かった可能性はある。そのことは、永禅和尚も知らないらしい。否、知ってゐても国禁に違反するから、絶対に云はなかった。
国の外行けぬ悪き世徳川がふたほ(百)とむそ(十)の年を重ねる
(終)

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