三千二十四(うた)試論「三学の慧は、経典学習の事では」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十二月五日(金)
小生はこれまで、止観は定だ、と書いて来た。一方で、止が定で観が慧だとする考へもあり、無常無我苦やその前提として不浄を指向するなら観は慧だが、小生はその部分を経典や解説書で得る方法もあると思ふ、とも書いた。
釈尊在世のときは、釈尊の指導で多くの者が阿羅漢になった。釈尊滅後は、第一次結集で経典が作られた。だから経を習ふことは、釈尊の指導を受けることであり、智慧を得る方法である。
一方で、経典が文書化される前は、記憶で次世代に伝へた。後世に教へを伝へることは、慧の一部だった。このやうに書くと、記憶は慧なのか、と疑問が出さうだ。しかし、戒や定ではない。三学のどれでもないことはないから、やはり慧だ。
ここで、三毒(貪瞋痴)の否定が何かを考へる。まづ三善根(無貪、無瞋、無痴)が思ひつくが、これは三毒に無を付けただけの、消極的な否定だ。積極的な否定としては、三学だ。経には三毒の否定が書かれるので、経を学ぶことはまづ、三学すべてに該当する。しかし、学ぶこと自体は慧だ。
次に、読経は何だらうか。これは、新たに礼拝と云ふ分野を作らなくてはいけない。戒定慧に合はせれば、拝である。四学なら戒定慧拝だが、三学しかないから、定の一部分だ。大乗経典は止観の手段だ、と主張した根源は此処にある。
大乗は止観手段の一つにて目指す頂き三学にあり

頂きは山岳の縁語。

十二月六日(土)
釈尊のご在世の時代に、仏像は無かったし、経典も無かった。入滅後に経典が出来たが、それは口伝による慧を助けるための資料だった。ダンマパダやスッタニパータの一部は、釈尊の直の言葉として読まれるやうになった。釈尊を偲んで仏足や菩提樹を礼拝するやうになり、後に仏像へと発展した。これらは、定を助ける日常行事だった。
十五年ほど前に、パオ森林僧院のホームページから、パオサヤドーが仏像を磨く動画を観た。総院長が自ら磨く行為に感動し、これが定を助けると納得した。
日本では、三学が平安時代まで守られたが、鎌倉仏法は拝のみになった。これは世の中が乱れたため、末法に入り釈尊の仏教は力が無くなったと当時の人々が思った為だった。しかし、末法は続かなかった。鎌倉時代に平和が訪れたし、室町時代にも平和が訪れた。江戸時代にも平和が訪れた。
鎌倉仏法が三学に復帰することを、切に願ふ次第である。
三学を目指す鎌倉仏法に他宗批判はしてはいけない
三学を目指す鎌倉仏法に浄土は善きも現世で修業
三学を目指す日本の天台宗最澄の咎戒の復活


「初期仏法を尋ねる」(百九十六) 「初期仏法を尋ねる」(百九十八)

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