二千九百九十七(うた)不発に終はった、三冊と一ドラマ
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月十六日(日)
日曜午後二時からテレビ朝日で
日曜ミステリー「シロクマ園長 命の事件簿」

が放送された。番組内容は
旭川動物園園長の熊代(西郷輝彦)は、通称『シロクマ園長』と呼ばれ親しまれていた。ある日熊代の出身大学OBたちが動物園を訪れる。その夜一行は旭岳温泉で宴会を開催。すると、宴席を途中で離れた花輪(丹波義隆)が行方不明になり、翌日遺体で発見される。死因は沢への転落による窒息死と判断されるが、腑に落ちない熊代は旭川南署刑事・里美(青山倫子)と事件を追う。犯人のヒントは、園内の動物たちの行動に隠されていた!

見始めてすぐに、旭川動物園の動物を映し、観客が喜んで見るところが大袈裟なので呆れ、園長の言動、刑事の言動、飼育係の言動が不自然なので不快感を持ち、大学時代の研究室OB到着の会話に退屈し、スヰッチを切った。
たぶん敗者復活は無理だが、暫くして再度見たところ、OBの一人が川原で死亡し、年配刑事の大袈裟な対応(酒をどのくらいと質問し、それではぐてんぐてんじゃないか、と云った)、女の若い刑事の勝手な指示(死亡解剖するまでここから出てはいけない)で、再度スヰッチを切った。
このドラマが合はない理由を一つに纏めれば、経過時間に対し内容が少ない。一時間ものを、二時間に引き延ばした感じだ。次いで合はない理由を挙げれば、人間関係と大袈裟だ。
テレビドラマを切るほとんどの理由は、人間関係だ。自分と合はない人間関係は、観たくないのが多くの人の感覚だらう(11.21追記 登場人物の設定も悪い。若い女刑事が元番長など)。短篇物語に、会話を入れない理由もここにある。
冗長と人間関係劣悪のテレビはすぐに切るものの 近代文芸小説は二つが劣る文字列として

反歌  自由詩と小説元は無き故に今も合はぬが大和の声か

十一月十七日(月)
図書館から借りた三冊のうちの一冊は、NHK出版の駄本を批判で、既に批判をした。二冊目と三冊目は、徳一と最澄の論争を検索し見つけたものだが、会津へ二回旅行し、一週間後に会津の寺に載る恵日寺に興味を持ったからだった。このとき既に短編物語に軸足を移したが、NHK出版の駄本が現れたために、大乗を調べる気持ちが消失した。
代はりに、インドでは従来各派と大乗が共存してゐたことを指摘したい。それは三蔵玄奘の旅行記を読めば明らかだ。玄奘及びその弟子たちは、無理に部派二十部と大乗に分けるが、本来は二十一部または大乗も幾つかに分けて二十数部と云へば済む。
大乗の中にも、徳一と最澄の論争のやうに三乗と一乗に分かれるが、これ自体、大乗が一つではないことを示す。部派と大乗を分けるものを、現代の日本では、自己の修行か、仏を拝むか、で分けるが、部派は仏を拝むし、大乗も自己の修行をする。大乗で自己の修行をしないのは、鎌倉仏法だ。真言宗や天台宗までは、阿字観や止観をしてきた。
三冊のうちの一冊に、学派としての中国の宗派に、新たに達磨が禅宗をもたらした、とするものがあった。さうではなく、戒定慧は仏法の基本だ。戒定慧の定とは禅定のことだから、もともと坐禅はあったが、専修の宗派として入ったと考へるべきだらう。
部派の論蔵と、大乗各派に違ひはない。戒定慧を行なふ限りに於いては。慧は各派の論蔵があり、この部分のみ異なるが、それは手段の相異だ。
中国では、時間の経緯を無視して経典がたくさん入った。だから理論に優れると思はれるものを大乗、修行を除いて考へるから優れることに気付かず単純なものを部派としただけだらう。
戒定慧三つ揃ひて仏法が論蔵のみで大乗と為す
(終)

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