二千九百九十八(うた)短編物語「信玄病死せず」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月十七日(月)
第一章 信玄上洛
武田信玄は、松平を破った直後に病死した。あのまま病気にならず進軍したら、織田信長と激突した。信長の特長は、一回目には負けて、二回目以降は対策を立てて相手に勝つ。桶狭間の戦ひも、それまで押され続けた敗戦から、対策を学んだものだった。しかし信玄の騎馬隊は強すぎた。最初の一撃に、織田軍は跡形も無かった。この話には尾びれが付き、織田軍は完敗し死体さへ残らなかった、と云はれ続けた。
信玄は上洛し、新しい将軍を立て、管領となり幕府内で大きな権限を握った。越後の上杉謙信は、幕府再興を願ってゐたので、信玄の幕府に協力。信玄も、上洛の国力を付けるために信濃へ侵攻したので、信濃を元の領主へ返還した。代はりに松平と織田の領地を手にしたが。
信玄と謙信ともに仏門に昨日の敵は今日の善友
第二章 幕府の範囲
管領は信玄、関東管領は謙信と、力を分け合った。とは云へ、幕府の力が及ぶのは関東から近畿までで、中国四国九州は独立状態だった。
信玄は戦略謙信戦術が共に勝れて職を分け合ふ
謙信はこれら地方への武力侵攻を主張し、信玄は放置を主張した。信玄が云ふにはこれら地方では、いづれ大名間の領地争ひやお家騒動が起きる。昔は大雨が降ると、川の流れが変はる。すると領地争ひが発生した。それらのときに幕府が介入すれば、幕府に言ひなりの大名が誕生する、と云ふものだった。
謙信はまもなく亡くなり、二人の養子のうちの一人が関東管領職を、もう一人が越後の国主を継いだ。そして武力侵攻を云ふ者はゐなくなった。信玄の主張は正しく、このあと幕府に随ふ大名ばかりになった。このときから「何々づら」と云ふ言ひ方は、京言葉になった。
第三章 幕府御家人の処遇
幕府御家人には、位のみ高くして、権限を与へなかった。しかも世代交代すると位を半分に下げた。能力のある者は、大名に仕官し、無能なものは消えて行った。このやり方は、大名の家臣団にも波及し、かなりの効果を上げた。
更に、このやり方は宮中にも波及した。それは幕府が、宮中の幕府への貢献度に応じて経費を支給する方法に変へたからだった。そのため幕末に出る筈だった、岩倉と云ふずる賢い男の先祖は消滅した。昭和の御世に出る筈だった、近衛と云ふ無責任な男の先祖も途絶えた。
信玄こそ、近代日本の最大貢献者になったが、それは後の世の話である。
信玄と謙信まではまとも人 以後現れる唯物者その反動と型はめ者に
反歌
信長は南蛮転じ大和蛮秀吉家康皆変人に
反歌
家康は固定既得を重視する織田豊臣の逆二百年
世の中が変化しないなら、家康のやり方もあり得る。家康は単に、織田と豊臣の逆を行くだけだった。二百年とは、大坂の陣から数へてアヘン戦争で清国が敗北するまで。幕府自体は、信玄が病死したなら、二百六十五年続いた。(終)
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