二千九百七十三(うた)1.最新の歌論文学論、2.読まなかった「会津士魂」「会津の寺」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月一日(土)
第一部
短編物語を九つ書いた。得た結論は前回の物語論と変はらない。思へば、物語(世間で云ふ小説)は高校生の頃から嫌ひだった。理由は、冗長なことだ。日本人が日本語で作った西洋詩も、不定形のものは嫌ひだった。定型に近いものは、嫌ひではない。
長い歴史の流れで、和歌や漢詩には美しさを感じる。それ以外は、感情過剰で醜ささへ感じる。多くの人が、同じ感想であらう。決して、西洋の猿真似だから駄目ではない。高校生の頃は、そのやうな意見は持たなかった。それでも物語と不定形西洋詩は嫌ひだった。
下記の第二部に出て来る、物語と小説は同じものだが、強いて違ひを挙げると、小説は直接話法が過剰だ。それでは、人格、感情、人間関係、雰囲気を、小説家が捏造してしまふ。
小説と西洋詩にて不定形 これら二つは秋津洲昔から在る文学に非ざるものに 人には合はず

反歌  物語り直接話法が過剰には小説と呼び文が冗長

第二部
早乙女貢「会津士魂」を、九冊借りた。1会津藩京へ、4鳥羽伏見の巻、7列藩同盟の巻、8日光の巻、続1流亡の巻、続1艦隊蝦夷へ、続4斗南の巻、続7反乱の巻、を借りたが、図書館でぱらぱらめくっただけで返却した。続1が二冊あるのは、通常の本と文庫で題名が違ふだけで、内容は同じだった。
巻の題名から分かるやうに、興味を持てさうなものを借りたが、それでも駄目だった。よほど物語と云ふよりは、小説が合はない。それなら借りなければいいのに、と思はれることでせう。早乙女勝元の著書なら面白いだらうと思ったら、早乙女貢でまったくの別人だった。

「会津の寺」は、家まで持ち帰った。しかし読むところは、ほとんど無かった。調べたい寺が書いてなかった。とは云へ、先頭の恵日寺(真言宗)は見逃せない。
法相宗の大学者、徳一(括弧内略)が大同元年(八〇六)に開いた(中略)寺僧三百、僧兵六千、堂塔伽藍百、支院三千八百坊(以下略)
徳一は最初、東大寺、興福寺の僧であったが当時の僧たちの奢りが目に余っていたので悔い改めようとした。唐の留学から帰った最澄は伝統的仏教を攻撃したが、それに反対論を展開したのが、いわゆる「三一論争」とよばれるものだった。(中略)また、一方「真言宗未決文」により真言宗をも批判した(以下略)

現在の恵日寺は、真言宗だ。
その後、源平の合戦で恵日寺の衆徒頭、乗丹坊が木曽義仲と戦い討死してしまう。平家についたことで(中略)衰運に向かうことになる。

時は下り
天永十七年(一五八九)、伊達政宗が会津に攻めて来た際、(中略)堂塔一切が燃え、灰燼と化してしまう。(中略)
明治になり(中略)廃寺となったが明治三十七年(中略)塔頭観音院住職(中略)が第八十一世を受け継ぎ(以下略)

さて
伽藍の造営は三度に(中略)第一回は薬師如来(中略)第二回は白山権現(法相宗や真言宗ではあまり祀らない)が中心仏だった時代畏。これは(中略)法相から天台への移り替わりだと考えられる。第三回目は、真言宗に転じた(以下略)

徳一大師廟、五重塔跡、戒壇跡、乗丹坊の墓がある。
越後の山の太郎相津の乗丹坊なンどいふきこゆる兵どもそこにてうたれぬ
と『平家物語』に書かれている。

とある。
最澄と徳一による言ひ合ひはいつか取り上げ 恵日寺は法相宗から天台を経て真言に哀しみ替へに

反歌  恵日寺の五重塔と戒壇のそれぞれ跡地昔に帰る
(終) (11.03追記)長歌は「法相宗から天台宗そして真言」だったが、真言だけ宗が付かないのは非対称なので、上記に変へた。

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