二千九百三十五(朗詠のうた)止観と呼吸と断酒
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十月六日(月)
止観で一番大切なのは、呼吸だ。止観とは、瞑想や坐禅とほぼ同じ意味だ。止観との違ひは、瞑想は目を閉じる。坐禅は半眼で更に、坐ることのみを指す(坐禅にも経(きん)行(ひん)と云って、ゆっくり歩く動作がある。しかしこれは、坐禅を終へた後に足を整へるため)。止観は、止と観があることを認識し、実践する。あとは瞑想の流儀でもよいし、坐禅の流儀でも、その中間や地震に合ふやうに改良したものでもよい。
良寛和尚は、若い時に坐禅の修行で呼吸法を習得したと述べた。小生も、最近になって呼吸が大切だと分かった。それが分かると、晩酌の断酒が容易にできる。
それぞれの性格に応じて、曹洞宗式がよい、臨済宗式がよい、南伝式がよい、と分かれる。南伝式は、通常の南伝のほかに、ワットパクナム、パオ、マハーシなど瞑想法に特化したものがある。
小生は、通常の南伝がよいと思ふ。と云ふのは、特化したものは瞑想法が複雑だ。臨済宗も、公案の回答を見つけることをするから、複雑だ。曹洞宗と臨済宗は、中国に特化した。日本に入ってから、曹洞宗は武士的に、臨済宗は公家的になった。
とは云へ通常の南伝は、本来は在家の瞑想とは無関係だ。これは曹洞宗や臨済宗も同じだ。世の中が複雑化するにつれて、日本では明治以降に文豪たちが、脳病院へ通院したり、鎌倉の坐禅に参加する人が出た。南伝も、世の中が複雑になるにつれて瞑想に、古文書を引用したり、新規に開発したりした。
過去に、曹洞宗の坐禅会で呼吸を聞いたことがあるが、それは静かに息をすることだった。南伝のパオで呼吸を聞いたのは、呼吸を数へることだった。小生が気付いたのは、心を静める時にゆっくり息をする。しかしこれは、心を静める必要のある人にのみ有効だ。心を活性化する必要のある人は別の方法が必要だが、小生は経験が無いので何も云へない。
ここまで読み、九月十八日の「今までは、止で心を安定させ、観で活性化する、だった。今は、止で心を安定させ、観で心の容器に水を満たす」との関係はどうなるのか、と疑問を持つ人もゐることでせう。まづ、止で安定させる人と、観で活性化する人に分かれる。次に、安定させた人は観で水を満たし、活性化した人は止で正しい方向へ向ける。
止めるにて心を安くする時と観るにて活かす二つの人あり


止観瞑想坐禅とは無関係の、医師が自律神経を解説する動画を観てゐたら、深呼吸が心を安定させる、とあった。ここで、なるほどと気付く。止観のうちの止は、感情を安定せ、自律神経を整へるものだった。心を安定させると、晩酌の断酒を簡単にできる。そして飲酒は、心を安定させるのではなく、感覚を鈍くするだけだと気付く。尚ここでも、安定と活性化が出て来る。活性化が必要な人は、飲酒で活性したやうに感じるのだらう。実は感覚が鈍くなるだけだった。
お酒とは悟りの湯には非ずして心を鈍く障りあるのみ
(終)

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