二千九百六十八(うた)短編物語「末法はあるか」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十月三十日(木)
第一章 芝増上寺
徳川幕府の或る将軍が、今の世は平和だ、とつくづく思った。それなのに、今は末法だと云ふ。そこで芝増上寺の徳川家墓地へお参りをしたとき、貫主に尋ねた。貫主は、阿弥陀仏の御威光が大きいので、平和になったことを述べた。将軍がやや不満さうに見えたので、東照大権現は薬師如来と云はれますが、或いは阿弥陀仏かもしれませぬ、と付け加へた。
権現は仏が神の姿にて人を救ふの物語 家康は生きた時代には嫌はれるとも 天皇が勅許東照大権現に

反歌  垂迹は仏と神を結び付け中の人間皆幸せに

第二章 上野寛永寺
徳川家の墓地は、上野寛永寺にもある。お参りした時に、門跡に尋ねた。浄土宗は、法然が末法の前提で開祖となったので、増上寺は末法を否定できなかった。それに対し、天台宗は唐土の智顗が、末法とは無関係に開山した。しかも唐土の宗派は、学派だ。日本のやうな教団とは異なる。だから自由に発言できる。その流れを受け継ぐ上野寛永寺は、次のやうに説明した。
お釈迦様の教へは年月の経過とともに、衰へたり別の考へが入ったりします。末法とは、時代と、そのときの周囲と、自分の心と、三つに発生したり消滅したりをします。これは末法の前の像法や、更にその前の正法も同じです。
鎌倉時代は、時代が末法でした。しかし今は、時代が正法になりました。これは歴代の公方様のおかげです。

将軍は喜んで、江戸城へ戻った。
天台宗天海所属の宗派にて大権現の主張がとほる

天海の大権現、崇伝の明神で、論争があった。

第三章 臨済宗と曹洞宗
将軍は、そのやうなことがあってから鎌倉時代に関心を持ち、鎌倉へ出掛けた。そして臨済宗のお寺を観て回り、それぞれ同じ質問をした。まとめると、次の説明があった。
末法の事が書いてあるのは、大集経です。このお経は、天竺に遊牧民が侵入し仏像を破壊したときに作られた、と云はれています。今の日本は、外国から攻められることはないので、末法とは無関係です。

同じ禅宗に、臨済宗のほかに曹洞宗がある。このころ良寛和尚の噂を耳にした。会ってみたいが、宗派の出世には無頓着な方なので、偉い方が会ひたいと云ったら、姿を隠すでせう、とのことだった。そこで、無役の貧乏旗本のふりをして会ふことにした。
坐禅には良きも悪きも導くか 良寛和尚良き方へ 崇伝黒衣悪き方角

反歌  崇伝は臨済宗の悪坊主国家安康豊臣滅ぶ
まづは良寛和尚の噂が高い漢詩と和歌の話をすると、知識が深いので感心した。あやうく末法の質問をし忘れるところだった。和尚は末法について、次のやうに回答した。
不立文字なので、末法のことが書いてある経があっても、それは方便です。余計なことを詮索する時間があったら、お香を焚き、仏像を礼拝し、坐禅をして、余った時間に漢詩や和歌を作り、筆で字を書きます。

唐土の話も出て、或いは行ったことがあるのでは、と将軍の頭を一瞬よぎった。しかし国禁である。栄西和尚や道元和尚が渡航したので、その書物を読んだのだな、と思ひ直した。
黒船が浦賀に現れるのは、もうすぐである。(終)

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