二千九百十一(うた)(閲覧注意)会津若松客操跡
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
九月十日(水)
駅の改札口を出て、左側に貨物扱い所の屋根とコンテナの列が見えた。ここから見る限り、貨物駅そのものだが、トラック施設ではないかと冷淡だった。帰宅後に調べると、コンテナを扱ふ駅ではあるものの、トラックの施設になった。
駅の会津鉄道発着ホーム先の機関区への分岐切り込みは無くなり、ホーム途中からの柵で区切られた外側で斜面になった。ホームと平行する線群は四線でその外側に洗浄線が三線ほど。五十年間、ここは尾久みたいな客操なので、貨車の入れ換へとは違ふ夏のぼわっとした光景が頭にあったので、狭いのには意外だった。
帰宅後に調べると、昭和五十四年の配線図で、切り込みのあるホームの外側に客車の留置線が四つとその外側に洗浄線が二線。その外側に留置線が五つで三つ目と四つ目間にパンタグラフ点検台。配線図の記事によると、客車15両程度が常備(記事では配置)なので、どこで交番検査をしたのか。おそらくパンタグラフ点検台の外側の一線だらう。
今回ホームから見たら、洗浄線はあるものの車両は無く、その外側は無い様子だった。これが、貨車の組成駅とは異なる雰囲気を感じた当時と、僅かに線のある今との相違か。
今からは四十五年も前頃に家族旅行で若松へ 心に残る光景は客操広く 今回は狭く感じて戸惑ひがある

反歌  洗浄線今は使はず線のみかその外側は存続不明

九月十一日(木)
配線図によると、本屋の側は留置線が二本と、屋根の下に貨物が七本で、うち二本は中線。おそらく現存はここまでだが、その外側に留置線が十本あり、一番外側はシェルの専用線だった。その郡山新津側に三石の専用線が二つあった。

旅客関係では、本屋のホーム(下本)と中線と向いのホーム(上本)の計三線は、ホームを過ぎた所で行き止まりになる。そして片渡り線がそれぞれを結ぶので、中線は機回り線である。今は三線のホームを過ぎた部分を廃止し、ここもホームの高さにして連絡通路にした。
上本のホームの過ぎた部分からは、ホームを越えて、ホーム反対側だが乗り場ではない只本、その隣はもう一つ先のホームに面する只2を超えた0(これもホームに面するが乗り場ではない、機関区への入庫線が区切れのあるもの)に繋がる。その外側に、前述の客車の留置線四つがある。
民営化旅客と貨物会社分け この時点にて客車には長所生かせず消滅となる

反歌  国の外客車活躍日本には狭軌山岳人口密度
ここまで書いたあと、調べてみると前にも書いたことが分かった。昭和五十年代に来たときは50系客車だと思ってゐたが、50系が登場したときと旅行時期が同じだ。すぐには全国に広まらないだらう、従来客車だったか、と迷ふことの結論が書いてあった。
昭和の代新系列が現はれて 従来客車と呼ばれるも 今はどちらもほぼ消滅に

反歌  高崎は二つの客車磐越は新系列のみほそぼそ続く(終)

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