二千九百九(うた)声聞と辟支仏の統合
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
九月三日(水)
タイ、ミャンマーのやうに南伝仏法が機能する国、或いはベトナムのやうに大乗仏法が機能する国ならば、これから述べることは必要ない。日本のやうに仏法の壊れた国に、必要な理論である。
声聞とは、お経や師匠の云はれることに随ひ、仏となる者。辟支仏とは、独りで仏になる者である。独覚とも云ふし、縁覚とも云ふ。縁覚は、周囲の縁で仏になるからである。
釈尊在世のときや、初期仏法の時代には、声聞と辟支仏が分離してゐなかったのではないか。釈尊は、修行者に合った指導をした。声聞ではあっても、辟支仏に近い。
釈尊滅後に、仏法とは無関係に仏になった修行者は、自ら辟支仏とは云はないだらう。仏法とは別なのだから、独自の宗教だ。釈尊滅後に、経典を読んだり師匠から経典を使って習ったりした人は、声聞だ。しかし、釈尊在世時とは異なり各修行者に合った指導では無いから、辟支仏を消失した声聞である。
声聞と辟支仏とは分離せず皆が仏になる修行法
九月四日(木)
良寛和尚の時代に、声聞単独としての修行は、宗内組織に残ることだ。しかし江戸時代の寺請け制度に、和尚は限界を見た。そこで辟支仏を含む声聞を選んだ。つまり、初期仏法への回帰である。
和尚がこの選択を出来た理由は、やはり渡航が一番合ふ。日本中をいくら修行しても、駄目だらう。そしてもし日本中で可能だったなら、それを公表したはずだ。
仏法が正しく機能しないときは、達磨大師や道元禅師や良寛和尚など、先駆けとなる人が現れる。良寛和尚は他の二人とは異なり、門流を残さなかったが、残りの二人は結果として門流が大きく伸びただけだ。達磨大師は布教をせずに面壁を続けたし、道元禅師はたまたま三代後に瑩山が出て全国展開した。
仏法が無効化するの時代には先駆けとなる人現れる
伝教と弘法はどうだらうか。あの二人は、自分たちの功績を競ふだけではなかったか。或いは、現世利益に囚はれたか。
九月五日(金)
智顗も批判対象だった。その理由は、教義の複雑化だ。しかし、仏法と学問が分化してゐない時代である。止観や読経と同じで、教義の研究は修行の一環ではなかったか。
智顗のほかにも、部派時代以降の古文書は修行の一環だったのかと、思ふやうになった。とは云へ、小生は簡単な教義を好む。釈尊が、相手に合はせて指導したやうに、簡単な教義を好む人と、智顗や道元のやうに複雑な教義を好む人がゐる。
良寛和尚は、若いときは道元に傾倒したが、越後へ戻ってからは簡単な教義を好んだ。小生も若いときは複雑な教義を好んだが、四十五歳辺りから簡単な教義を好むやうになった。これは中村元さんの影響と、智顗を始めとする複雑な止観への疑問がある。
若きとき道元禅師に傾倒を しかし越後に戻るとき教義簡略好むには何が変へたかその間にて
反歌
渡航にて良寛和尚の不明点すべて解決あとは証拠が(終)
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