二千九百十三(うた)常時止観(常時瞑想、常時坐禅)
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
九月十日(水)
常時止観を考へた。何もしない状態のときは、常に止観をしよう。パソコンに、CPU使用率がある。何かの作業をすると高くなり、何もしないと低くなる。人間の頭も同じなので、使用率が低いときは止観をしよう。これが今回の目的である。
止観とは、瞑想、坐禅とほぼ同じである。瞑想は目を閉じて想ふことだから、半眼(目を軽く開ける)の座禅や、今回の常時止観とは、少し異なる。坐禅は坐って禅定を目指すことだから、寝たり歩いたりしても瞑想することや、常時止観と、これも少し異なる。
常時止観の特長は、常に仏道修行の心があることだ。歩行中に行ふと、交通事故の虞があるし、仕事中に行ふと失敗の虞がある。さういふときは、行ってはいけない。慣れてくれば、影響が無い程度に少しだけ行ふこともできる。頭の使用率が0%のときは、100%の止観を行なふことができる。
常に仏道修行の心があることは貴重だ。それでこそ、心が落ち着くし、智慧が働くし、正しい生活を送ることができる。
歳を取り常時止観を思ひ立つ 歩行や仕事生活に障りとならぬ程度にて 手が空いたなら全霊で行ふことも 常に尊し

反歌  尊きは常に行ふ修行にて仏即ち生活と為す

九月十日(水)その二
年齢と共に、止観への期待は変化する。煩悩が消えれば命も消滅すると云ふのは、高年向き、かなりおまけをしても中高年向きだ。若年層に受け入れられるのは、社会が仏法優位の場合だ。だからタイやミャンマーでは、若年層にも受け入れられる。
小生は高年だが、煩悩が消えれば命も消滅する、は止観の方法だとする。とは云へ、煩悩が消えたあとどうなるかは、分からない。小生が常時止観を考へたのは、判断力と集中力と記憶力が落ちたためだ。
このうち記憶力は、昔のことを忘れないが、直前の事を忘れることがある。例へば、鍵なりカードなり財布がない。探しても無い。しかし電気釜の横に合った。最近起きた最大は、我が家のプラごみを出し忘れた。翌週に二袋を出して無事解決した。もし可燃ごみだったら、腐敗して大変だった。某Z党旧A派四人臭並みの腐敗になっただらう。

九月十一日(木)
歌を作ることは止観だと、これまで述べてきた。これは、今回の常時止観の一部だ。良寛和尚の漢詩や和歌や筆は止観だとすることも、述べてきた。これは一部ではなく、全部だ。和尚は、出家し戒律を保ち、その上で漢詩や和歌や筆を行なった。
和尚が酒を飲むことを以て、戒律を破ったと解釈してはいけない。当時の国内仏法界では、酒を般若湯と呼んで、悪く酔ってはいけないが、さうでないのなら悪いことではなかった。これは気象も関係する。インドのやうな暑い国と、日本の冬とは異なる。酒は体を温める薬であった。若者の酒離れは、空調の完備と温暖化が原因かも知れない。
半年ほど前に読んだ記事に、真夏に酒を飲むのは自殺行為だ、とあった。これは正しい。でんぷんは4Kcal/g、脂肪は9Kcal/lに対し、アルコールは7Kcal/gだ。でんぷんや脂肪は余れば体内に蓄へられるが、アルコールは消費するだけだ。そのため体が熱くなる。飲んで外に居ては、熱中症になる。
インドと日本の違ひを考慮すると、良寛和尚は戒律を破ったのではなく、他の僧侶と同じ行動をした。清国ではどうだっただらうか。それにより、渡航説の真偽が分かるのではないか。清国でも般若湯なら、和尚は渡航した可能性が高い。(終)

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