二千八百七十九(朗詠のうた)初期仏法、和歌論
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
八月五日(火)
今回は「初期仏法を尋ねる」と「和歌論」の共演である。別表現では、コラボやハイブリッドだが、片仮名語を避けた。
瞑想や読経はやればやっただけの功徳がある、と前に書いたことがある。これは頓悟への反論で、頓悟は悟らないとやったことが無駄になる。それを批判した。
とは云へ、やった時間数を稼ぐためにやったのでは駄目だ。今日は何時間、では駄目だ。瞑想をするのは貪瞋痴を越えるためであり、読経は釈尊の言葉を思ひ起こすためだ。さう云ふ心掛けでやれば、やっただけの功徳はある。
歌作りでも同じことが云へる。歌を作れば、作っただけの功徳がある。しかし何首作った、長歌だと長さに応じて短歌幾つ分だ、と作ったのでは駄目だ。
歌を詠む 世の中の為星の為中味まづあり 聞く人を心地よくする調べあり 功(いさを)となりて恵みと還る

反歌  中味好し心地も良しの歌作り生きとし生けるすべての為に

八月六日(水)
左千夫の歌感は、美しいものを作ることだった。茂吉の歌論は、小生と同じで定型にすることに価値があるとする。最初、茂吉の歌論が分からず、狂人が死んだだとか卵の殻が流れてきた歌に、どこが美しいのか、と嫌悪感を持った。その後、留学日記としての価値に気付き、人生記録としての価値に気付いた。
だから、定型化の価値はあっても、全体の価値が無いと駄目だ。
生きるとは長く一つの物語生きとし生ける誰もが一つ


八月七日(木)
文章を書く瞑想の記事を読んだ。小生と同じ主張だ、と最初は喜んだ。しかしよく読むと、頭に浮かぶことをそのまま書き記すので、小生とは別物だ。これは意識の発掘、再発見が目的だな。
小生の場合は、三学のうちの定と慧。主に、止が定、観が慧に、寄与する。普通の文章を書くときも該当するが、歌を作る時は止観が特に行なはれる。
しかし更に大きな違ひがある。止観は、行ふことで功徳がある。それに対し、頭に浮かぶことを文章にするのは自己観察が目的で、功徳とは無関係だ。
とは云へ、功徳を目的に文章を書くのは、一昨日に書いたやうに駄目だ。世の為に書くことが必須だ。

八月八日(金)
松下幸之助が出演するYoutube『(中略)なぜか組織を崩壊させるリーダーに共通する「私心」の正体』を見た。「私心」は「わたくしごこころ」と読む。この話で今回の特集を終了させようと思ったが「(モリカケ桜フジ河柳ジャニーズ藪黒敗トリー放債カルト裏安」特集に回し、「初期仏法を尋ねる」「和歌論」では、私心のみに限定させることにした。
仏法では、私心を無くすために出家がある。しかし戒律を無視すると私心を無くすことはできない。日本の仏法は、明治維新以前に戻るべきだと主張する根拠はここにある。今の僧侶は、準僧侶として存続するから、生活は守られる。
歌詠みの世界では、子規と左千夫の他派攻撃には、私心があったのだらう。その一方で、若くして亡くなった左千夫、赤彦は、結果として私心とは無縁になった。小生が、左千夫と赤彦を応援しようとする理由はここにある。子規も若くして亡くなったが、新聞執筆者の立場を駆使して、他派攻撃をしたから、私心と無縁とは云へない。
「私心」が無く、「初期仏法を尋ねる」と「和歌論」に関はるのは、良寛和尚である。
幸之助松下電器創業者 私心(わたくしごころ)ある人が組織の長になるときはその賢さが国を滅ぼす

反歌  賢しと賢く無しと皆ともに私心(わたくしごころ)人生の敵
反歌  賢しは組織滅ぼしもう一つ賢く無しはその身滅ぼす(終)

兼「良寛和尚と初期仏法を尋ねる」(百七十六)

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