二千八百四十九(うた)「アジア仏教史 中国編 Ⅱ民衆の仏教」
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
七月十五日(火)
第二章では、印刷技術が中国の仏法に及ぼした影響は大きい。世界最古の印刷物は867年に唐の王が
二親の功徳のために(中略)普施したという願文を持つ『金剛般若経』である。
宋の時代には
大蔵経の出版を計画したのである。(中略)十三万枚にのぼる版木は(中略)印刷に付され、各大寺などに頒布されたものである。(中略)法宝として蔵経楼の中に祀り(中略)たやすく読み得るようなものでもなかった(以下略)
とは云へ
偽疑の経なりと判定されて入蔵を否定された中国人撰述の経典類のごときは、大蔵経の中に全く入りこむ余地をなくした(以下略)
七月十六日(水)
第三章は、禅宗についての特集で
語録・公案などに伝えられていることが、(中略)史的(中略)を裏付ける証拠となるものではない(以下略)
として「慧可断臂」を挙げる。もし事実なら、この宗派はカルトだ。事実は
『伝燈録』(中略)よりも三百六十年も遡(さかのぼ)った(中略)慧可伝では、かれが、先に賊のために臂を斬(字が少し違ふが、かういふ低級な話の為に同音同義の字を探すのは時間が無駄なので省いた)られたことを記し、また彗満が深さ三尺の雪の中に夜明かししたことを伝え(以下略)
いつしか、話を作り上げた。
臂を斬る凡そ仏と無関係自傷行為は傷害罪に
このあとまづ
六朝末期に興った天台止観の法にしても、華厳の法界観の教えにしても、いずれも禅によっているのであり(中略)慧可の立場も
「慧可の立場も」を引出すための前書きだが、問題点を赤色にした。天台が止観の語を用ゐたのは六朝末期でも、釈尊の時代から止観は続く。華厳の法界観の教へは経典の学習であって、坐禅とは無関係ではないのか。そもそも奈良仏教の宗派は、その分野を研究する学科だ。
南頓北漸の話になり
迷情・煩悩(中略)を徐々になくそう、しかして最後に仏の悟りの境界に到達すべきことを説く神秀の系統(北宗)と、
煩悩・迷情は本来存在しないものであり、修行に徹することがそのままに大悟に通ずるとする慧能の系統(南宗)との頓漸の争いは、早く南漸の勝利となった。
北宗と南宗は、北宗のほうが優勢だったが、国王の破仏で双方が滅び、南宗は復活したと読んだことがある。その時代を見た訳ではないから真実は分からないが、少なくとも、双方が対決して南宗が勝った話ではない。
この本のすべての章を書いたのは、牧田諦(たい)亮(りょう)。京都大学教授を経て聖徳学園岐阜教育大学教授、とある。曹洞宗系かと思ったが、浄土宗寺院の弟子。聖徳学園は浄土真宗本願寺派。埼玉工業大学学園長、浄土宗勧学を歴任した。埼玉工業大学は浄土宗系。
この問題を取り上げる理由は、迷情・煩悩を徐々になくして最後は仏の悟りに到達するのと、煩悩・迷情は本来存在せず修行に徹して大悟に通ずることに、違ひはあるか。「本来存在しない」とは、現実には存在するやうに感じることだ。
頓悟では仏になりた悟りたと間違ふ人が出る故に 漸悟のほうが望ましい修行はすべて無駄にはならず
反歌
頓悟にて死ぬ直前に悟るなら漸悟と同じ問題は無し
反歌
漸悟にて若く悟るも歳を取り衰へ死ぬの前に復活
このあと注目すべき記載は
凶悪犯・逃亡軍人の寺院への竄(ざん)入などの社会問題とあわせ(以下略)
なるほど、戦乱時はかう云ふことが多かったのだらう。
唐末から五代の混乱を経て宋代に及んで、首都文化圏が長安・洛陽から南下して(中略)禅宗などの新興教団の隆盛を来し、講学中心の旧仏教の衰退を来したことは従来もよく説明されるところではあるが(以下略)
とした上で
仏教教団全体の動向と見るべきであろう。(中略)僧侶の実践行動においてのみ区別が生じるのであって、日本で考えられているような宗派体制といったものとは相隔たった中国仏教(以下略)
これは同感。(終)
「初期仏法を尋ねる」(百六十九)
「初期仏法を尋ねる」(百七十一)
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