二千八百四十七(うた)「アジア仏教史 中国編 Ⅰ漢民族の仏教」その二
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
七月十三日(日)
二百七十七頁へ飛び、隋、唐の時代だ。
この時期には、まず三論・天台や三階教の教学が大成・開創され、唐代に入って浄土教や禅宗が隆盛となり、南山律宗・法相宗・華厳宗・密教などの(中略)成立を見るにいたった。(中略)三論・法相・密教などは(中略)インド仏教を忠実に中国へ伝えようとするうちに(中略)形成されたものであるが、その他の諸宗は(中略)中国仏教の実現を見いだしたものといわれている。(中略)浄土と禅は実践仏教として広く民間にまで浸透した。
なるほど。
中国人の実修しうる仏教を成立させたことを、中国仏教の形成というなら、(中略)智顗およびその門下の天台教団は、まさしくその代表たるにふさわしい(以下略)
智顗は
彗思(五一五~七七)について禅観を修し、(中略)法華三昧を授けた(以下略)
次に、禅は
インド以来、仏道修行は戒・定・慧の三学をもって(中略)この意味で禅を離れて、仏教は成立しない。
仏法は衆生本来無色なり 禅を離れて仏無く三学以外仏法は無し
反歌
三学が揃はざる国日本にはまづ 止観から始めるが佳し
さて、中国では
三学の中でもとくに禅定を重視し、(中略)達磨を祖とする禅宗と天台止観とが、その二大潮流をなし(以下略)
そして
中国仏教の主な諸教学・諸宗派は隋・唐時代までにすべて成立したもので(中略)しかし、仏教が現実に民衆のものとなったのは、唐末から宋代にかけて儒・道と影響し合い(中略)中国人の宗教となったときとされ、仏教内部について言えば教・禅あるいは浄・禅融合の実践であった(以下略)
七月十四日(月)
次に律宗について
釈尊滅後に結集された律蔵には(中略)『四分律』『五分律』『十誦律』(以下略)
そして
中国で正式の授戒は、仏図澄に始まるといわれるが、その伝授と研究に(中略)道安(括弧内略)であった。
最後に菩薩戒について
王族や在家の信者に授戒されていた。(中略)日本各宗の授戒が、ほとんど大乗菩薩戒のみによっているのと異なり、出家には具足戒( {蔑称なので略、従来} 戒)と菩薩戒は併用されており、僧俗共通の菩薩戒は、在家信者に広く行われていた(以下略)
菩薩戒在家信者の為にありこれのみにては僧侶に非ず
第九章を飛ばして十章へ入り
唐末仏教を衰退に追い込んだものは、仏教淘汰の詔(八四一年)に始まる武帝の廃仏(中略)であった。(中略)この間に廃止された寺四万四千余、僧尼の還俗二十六万余といわれるが、長安と洛陽には各二寺と僧三十人、地方諸州は各一寺と上州では僧二十人・中洲では僧十人・下洲では僧五人だけが存続させられた。当時、長安に勉学中だった日本天台宗の円仁は、還俗のうえ、強制帰国させられた(以下略)
その後
武宗は廃仏の翌年、死亡し、次の宣帝は仏教の復興に着手したが、(中略)農民暴動や(中略)黄巣の乱などにより(中略)五代十国の分裂・乱世に入ったのである。
とはいへ
円珍の『行歴抄』によっても仏教はまだ大きな力を持っていたことが解かる。
具足戒最澄が無視弊害は 山門寺門争ひに僧兵後に信長が焼く
反歌
円仁と円珍後に日本にて派閥争ひ武力衝突(終)
「初期仏法を尋ねる」(百六十八)
「初期仏法を尋ねる」(百七十)
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