二千八百四十四(うた)「アジア仏教史 中国編 Ⅰ漢民族の仏教」
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
七月十一日(金)
この書籍で、日本仏法と関はるのは、本文三百六十三頁のうちの百五十五頁からである。北魏は
四九四年十月、一世紀におよぶ首都平城から洛陽に遷都した。しかし北辺の守備に当たっていた北族軍人たちは(中略)反発を募らせ(中略)北斎(五五〇~七七年)と北周(五五六~八〇年)両立へ(以下略)

そして
禅といっても、この時代は菩提達摩(括弧内略)の禅ばかりを指すわけではなく、(中略)別系統の禅のほうが、むしろ、隆盛を極めていた。

その流れの一つに、仏駄跋陀羅がゐる。頁をさかのぼると、106㌻に
慧遠は鳩摩羅什門弟たちから擯斥を受けた北インド出身で(中略)禅をよくする持律沙門・仏駄跋陀羅と、その門下の一団を四一〇(括弧内略)年ごろ廬山に迎えた。

とある。次に慧遠について調べると、華北で戦乱が始まり
長安で(略、従来仏法)の論書を訳出していた(中略)(略、従来仏法)の学匠、僧伽提婆は難を江南に避け(中略)慧遠は師の道安らの援助を得て翻訳を続けていたという縁もあって、かれを温かく迎え、また、かれは慧遠の要請を受けて(中略)『阿毘曇心論』四巻を、また(中略)『三法度論』三巻を訳出した。前者は法勝の作で、(略、従来仏法)教学全体の概要を系統的に論述したものてあり、後者は世賢の作で、(中略)四阿含経(括弧内略)の綱要書で、かつて道安が序を撰した『四阿含暮抄解』の再訳である。

ここまではよい。蔑称があったのでそこだけ略して、従来仏法としたが。ところが
道安の膝下にあって般若の講演を聴聞したほどの慧遠が、大乗から(略、従来仏法)と擯斥される(略、従来仏法)阿毘曇の訳出を請うたり、(中略)これを「宝として重んじ」、門人にまで奨励していることは理解に苦しむ出来事である。

道安が序を撰した『四阿含暮抄解』の再訳を請ふことに、どこが問題なのか。「大乗から(略、従来仏法)と擯斥される(略、従来仏法)阿毘曇」と二回繰り返した。擯斥されるのは、この章を書いた藤堂慕(きょう)俊(しゅん)だ。
常識があれば、従来仏法と大乗の根本は同じだ、と考へ、従来仏法の資料を訳出する。無能な男は、そのことが分からず「理解に苦しむ」と放言する。死後に閻魔大王の前で苦しむのは、藤堂だ。閻魔帳(別名、奥付け)を見ると、大正大学研究科修了、仏教大学教授、知恩院山内S院、とある。通算七流教授(四流大学の四流教授)でなければ幸ひである。
当代一流の仏教学者である慧遠にして大乗・(略、従来仏法)の言葉ぐらい知らないはずがないが、両者の相違点が、どこにあるのか、(中略)なぜ対立視しなければならないのか、という点についての理解ができていなかったのであろう。

当代一流の仏教学者である慧遠に対し、坊主だか妻帯ニセ坊主だか不明だが、呆れた物言ひである。
妻帯のニセ坊主やら坊主やら不明な男 一流の仏法学者に暴言を 通算すれば七流学者

反歌  アジアでは戒を保つが僧侶にて妻帯坊主坊主に非ず
日本の妻帯ニセ坊主がアジアに旅行し、僧侶として扱はれるかどうか問題になる話を昭和五十年代だったか、読んだことがある。その後の仏法界内の経済支援が原因か、この話は聞かなくなったが。

七月十二日(土)
北朝の仏教をして重禅軽講の方向をたどらせた僧稠や僧実は、いったい、どうのような実践をしていたのであろうか。僧稠は自他ともに四念処法を行じた。(中略)このほかかれは呼吸を数えて心の散乱を除く精神統一方法、とくに(中略)十六特勝法を用いたりしていた。

もう一人の
僧実は九次第定を実践した。この九次第は無間禅と名づけられ、色界の四禅、無色界の四無色、滅尽の九定を(中略)順次に修得し、無心定にまで(以下略)

これらに対し、禅宗第二祖の
慧可は菩提達摩から四巻の『楞伽経』(括弧内略)を授けられ、これを必要として如来禅を修した。

如来とは空や唯識とともに存在するから、阿羅漢を目指すのと変はらない。楽観的な人と短中期に考へる人は如来禅を、悲観的な人と長期に考へる人は四念処法がよいのではないか。
仏法は重戒中禅中講が 戒は必須に中程の禅と講にて 三つが揃ふ

反歌  三学の慧は講のみに非ずして禅は止観の集合故に

七月十三日(日)
次に南朝だが、日本との関りは
わが国の南都仏教には(中略)六宗があったが、その大半の源を遠く南北朝時代に求めることができるわけである。

さて
中国にもたらされた経典を、すべて仏陀の(中略)説法と受け取った中国の仏教徒は、(中略)矛盾すら見いだされることに気づき、ここに教相判釈という中国仏教を特色づける分類・体系化を(以下略)

今では大乗非仏説と、更にはパーリ語経典もダンマパダとスッタニパータは古い(と云ふ事は、それ以外は新しい)事が分かった。
智顗は(中略)六朝時代に行われた教判について、「いわゆる南三北七」(括弧内略)と指摘して各師の説を紹介している。(中略)南地における教判としては彗観の頓・漸二教、有相・無相・抑揚。同帰・常住の五時判が最も権威あるものとして(四名、名前略)らによって用いられ、のち、天台宗智顗の教判は、これに基づいて成立することになった。

因みに北地の教判は、華厳宗の僧たちに用ひられたさうだ。
天台宗教判及び戒律と止観を含み三学揃ふ
(終)

「初期仏法を尋ねる」(百六十七)

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