二千八百四十(うた)「アジア仏教史 インド編 Ⅵ東南アジアの仏教」
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
七月七日(月)
「はじめに」は
東南アジアの歴史の構造を考えてみると、基層文化の上にインド化なり中国化の波が押しよせてきたのであるが、さらにインド化された地域では十三世紀ごろを中心に
上座部仏法化
するところとイスラム教化するところができた。
蔑称を用ゐるときは、これまでそのまま引用し、小生が書くときは「従来仏法」の語を使って来た。しかしこの連作は、出来の悪い本が多いので、蔑称は書き直すことにした。「はじめに」を書いたのは岩本裕。奥付けには、京都大学梵語学梵文学科卒、橘女子大学教授とある。この大学は手芸学校が発展したもので、宗派性はない。岩本自身その前は、東海大学、東京理科大学と宗派性の無い大学の教授だった。
「はしがき」に戻り
東南アジアの基層文化は、それがインド化なり中国化なりしてゆく過程において坮頭してきた。
具体的には
東南アジアの各地から発見された碑文は、最古のものから七・八世紀に至るまで、すべて梵語で書かれた。ところが七・八世紀になると、
古代マライ語・古代ジャワ語・クメール語などの碑文が見られるようになり、(中略)インド文化と土着の文化の混淆が行なわれた。
ところが十三世紀以後は
中国の非常に大きな影響があらわれてくる。元の南進に圧迫されて、南宋の商人たちが南海に進出し、遂には南海貿易の主導権を握るに至った。中国人の経済的進出はこの以後盛んになるが、特に十五世紀の後半に安南の黎利がチャンパーを滅ぼしたのち、インドシナ半島東部の中国化が急激に進み、チャンパーに代表されるインド文明は遂に歴史の表面から姿を消すに至った。
問題点を赤色にした。チャンパーはベトナムに滅ぼされ、ベトナムは中国の支配下になったり反乱したりを繰り返したが、中国そのものではない。仏法と文字で中国の影響を大きく受けたのは事実だ。
インドシナ半島の中央部から以西においては、ビルマ族やタイ族が南下してきて、インド文化を背景に栄えた諸王国を駆逐して、この地域の支配者となった。かれらは従来のインド文化を払拭するために、スリランカの上座部の仏教を移入し、遂には国教とした。
ビルマやタイは、布教する側及び受け入れる側の感覚、考慮、志向で、結果としてスリランカの上座部になったのであり、「従来のインド文化を払拭するため」ではない。そもそもスリランカ上座部が伝へる経典のパーリ語は、インド西部の口語だ。スリランカのシンハラ語とタミル語は、インドアーリア語族とドラビダ語族で、どちらもインドと同じだ。岩本裕は凡誤学凡糞愕禍ではないか、と嫌味を言ひたくなる。
岩本は低俗にして低級なことを言ふとは或ひはユタか(裕)
七月八日(火)
第二章「スリランカ(セイロン)の仏教」では、或る王が
ジャイナ教の寺院を壊して、代わりに仏教寺院を建て、これをアバヤギリヴィハーラ(無畏山寺)と名づけ、マハーティッサ長老に寄進した。
ところがこの長老は
社交的な手腕を有し、(中略)そこで、サンガはマハーティッサ長老を「良家のものと交わるという罪」のもとに(中略)追放するにいたった。(中略)サンガは二つに分裂し、アバヤギリヴィハーラ派が発生することになった
三百数十年後に
ランカーの比丘(氏名略、二名)は、インドの仏跡巡拝を行なったが、かれらは帰国後、(氏名略)王に対して、宿泊所がなくて困ったむねを報告した。そこで国王は、インドの(中略)王(括弧内略)にランカー寺院建立許可の件を依頼した。(中略)釈尊成道の地ブッダガヤーが選ばれ(中略)これがマハーボディヴィハーラ、すなわち、大菩提寺もしくは大覚寺と呼ばれるものである。
そして
中国をはじめとする諸外国の留学僧や巡礼僧たちも、この寺院に拄錫(僧が止住)するにいたった。玄奘の記録によれば、唐の初めごろには、この寺院に止住する僧徒は千名近くに達示ており、主として大乗上座部の法を学習していたことが知られる。ここでいう大乗上座部とは、アバヤギリヴィハーラ派を指し、この派が他部派のものや大乗のものを拒まなかったために、そのような呼称が用いられたもようである。したがってマハーヴィハーラ派を指して、小乗上座部とも呼んでいる。
しかしながら、この大菩提寺にあっては、玄奘は「戒律を守ることは厳格で、その行ないは正しくしている」としるしている(以下略)
マハーティッサ長老の時代からかなり経過したので、分裂前のマハーヴィハーラ派と変はらなくなったとも考へられるし、国王など「良家のものと交わるという罪」は帰国後の玄奘も同じだから、戒律は厳格と感じたとも取れる。
七月九日(水)
しかし
ランカーに大乗仏教が伝えられたのは、三世紀の初めごろと考えられるが、(中略)初めてインドから(原語略)方広派もしくは方等派と呼ばれる大乗の徒がきて、かれらの伝持する(中略)三蔵を正しい仏説となし、アバヤギリヴィハーラを根拠地とした。
アバヤギリヴィハーラ派が変質したとも考へられるが、三蔵を所持するなら進化したとも考へられる。それはインドにおけるギリシャや周辺民族の影響だが、ランカ島では不要だったのだらう。
十一世紀ごろまでの約五百年間は、一般に暗黒時代といわれ(中略)上座部仏教は衰微の様相を現わしていた。
これはアバヤギリヴィハーラや、そこに出入りした大乗系の他派が勢力を持ち(中略)原因とされているが、また、ときに政府が弱体で、しばしば侵入してきたタミール人による圧迫を排除することができず(中略)にもよるといわれる。
その後、
ランカーにおける密教の伝来は、南インド出身の学僧(名前等略、六七一~七四一)の数度の来島によるといわれている。かれの足跡は広く、(中略)スマトラ、そして中国大陸にまで及んでいる。
その後、ランカは
密教の一中心地
になったが、
金剛山部の密教には左道的な要素が含まれており、ヒンドゥー教徒のタミール人のあいだに信奉されてゆくあいだに、極端な秘教的色彩を帯び、(中略)批判する人も多かった。
インドで仏法が滅んだのは、かう云ふ過程ではなかったか。こののち
ヴィジャヤバーフ一世(在位一〇五九~一一一三年)が(中略)治安を回復するとともに、島民の崇拝の的となっていた仏歯を安置し供養する寺院を建立した。
また、王はビルマのアノーラタ王に使いを遣わして、かの地における上座部の長老たちを招請し、島内の青年たちを出家させて、上座部仏教の復興を図った。
ビルマの長老たちを招聘しなければ復興できないくらい、衰退してしまった。インドで滅びたのと同じ状況だった。
第二章佐々木教悟の筆に依る 大谷大学卒業後同大学の教授にて 岩本裕(ゆたか)と異なりて 偏向はなく低級も無し
反歌
文章に心がでると云はれるが中味に心また表れる(終)
「初期仏法を尋ねる」(百六十五)
「初期仏法を尋ねる」(百六十七)
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