二千八百十八(うた)玄奘法師を調べて
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月二十三日(月)
玄奘法師を調べて、まづ印象に残ったのは、印度では各派が入り混じり、そこに大乗も加はった。大乗が一派にまとまる事は無いだらう。玄奘法師は大乗の立場だから、大乗を一派として扱った。
大乗は 多くの派にて一つには非ざるものと思へども 玄奘法師分けずして しかし兼学これは認める

反歌  兼学の相手従来多くの派これで兼学一つに非ず
印度では、従来と大乗が混在したが、唐では大乗のみになった。これは経論を学問として扱ったためだらう。止観の実践は、このころ増えた禅宗に吸収されたか。
実践の仏法として禅宗が興り玄奘片側の派に

印度では、このあと密教が興るが、密教化が仏法を滅ぼした原因なのかどうか。過去に読んだ幾つかの書籍では、密教化がヒンズー教と変はらなくなり吸収された、とあった。
密教は仏法滅亡原因か あり得る話イスラムの侵攻などは影響が無し

反歌  後期には左道密教現れる堕落仏法邪悪な教へ
玄奘法師が、膨大な困難を乗り越えて、五印度を巡ったことは驚異であり、どれだけ賞賛しても賞賛し尽くすことはない。とは云へ、皇帝の援助で旅行した疑惑が残る。帰国後に、玄奘の翻訳を手伝ふ弟子が処刑された。玄奘は、弟子を批判せず、処刑も批判しなかった。処刑理由が正しいなら弟子を批判すべきだし、処刑理由がでたらめならそれを批判すべきだ。
玄奘は旅の費用と便宜とをどこで得たのか疑問が今へ

最初、南伝仏法と、良寛和尚の背後の達磨大師と、玄奘法師の、三方から初期仏法を探らうと思った。しかし玄奘法師は、大乗に偏り過ぎる。特に、何回か従来仏法を誹謗する内容がある。そのときは、加筆した弟子が悪いと考へたが。
従来と大乗ともに行く先は同じ違ふは途中の経路

清貧を貫いた良寛和尚と、帰国後に皇帝から厚遇された玄奘法師では、立ち場が逆だった。とは云へ、三蔵法師の名のとほり、玄奘法師は三蔵に精通した。つまり当時の大乗は、従来仏法の枠内だった。
玄奘法師が、上座部と出会ったことは、現代に役立つ貴重な情報だ。根本分裂の後、枝末分裂では上座部の名は消滅した。しかし、上座部が大衆部とともに残ってゐた。
根本の分裂印度と仏法に重大なるも気付かずに 玄奘法師上座部と大(だい)衆(しゅ)部ともに名を見逃すか

反歌  上座部と大衆部ともに健在を玄奘法師価値に気付かず(終)

「初期仏法を尋ねる」(百五十五) 「初期仏法を尋ねる」(百五十七)

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