二千八百二十(うた)藤田菅沼桜部「アジア仏教史 インド編 Ⅱ原始仏教と部派仏教」
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月二十四日(火)
玄奘法師を終了し、予て予約してあった「アジア仏教史 インド編 Ⅱ原始仏教と部派仏教」を読み始めた。「はじめに」には
ある者は出家して教団(僧伽)の成員となり、ある者は在家信者として、その教えを信奉した。

この時代は、在家信者も貪瞋痴の克服を目指したのだらうか。数年前までは、比丘を供養することで功徳を積むのが信者、との考へだった。しかし最近は、信者も貪瞋痴の克服を目指した、との考へに変はった。
歳を取るにつれ、貪瞋痴の克服に志向が変はったためだ。これは、志が高くなったのではなく、老化で貪瞋痴克服を意識しないと持続できないと感じるやうになった。そのことを感じない人が、老害化する。
間もなく、(中略)最初の統一国家マウリヤ王朝が出現し、(中略)仏教は飛躍的に発展・拡大した。しかし、(中略)保守的な部派(上座部)と進歩的な部派(大衆部)との二系統に(以下略)

玄奘を扱った本でも指摘したが、保守、進歩には分けられない。地域差による戒の解釈差だ。
釈尊の一代の教説は、(中略)やがて律蔵と経蔵(括弧内略)とにまとめられる。

ダンマパダとスッタニパータは、最古の経と云はれる。それならば、この二経を経蔵とし、それ以外の経を論蔵とし、律蔵はそのままにすれば、従来と大乗は統合できる。これも、玄奘の書籍紹介で論じた。
釈尊の時代には(中略)一所不在の遍歴生活を建て前としていたが、部派教団の時代になると、次第に僧院内の定住生活に変わっていく。

良寛和尚は国上定住前は、正に一所不在の遍歴生活だったが、どこで知ったのかを考へると渡航以外に無い。
信者の間には(中略)追慕・崇拝の念が高まり、仏塔の建立・礼拝が盛行し、後には仏像も制作されるようになる。そして(中略)出家修行者たちにも浸透していった。

ここまで何ら問題は無い。ところが続いて
部派の教団は、釈尊以来の(中略)教説を忠実に保存し、(中略)大乗仏教が勃興するに及んで(中略)インド仏教の主流の位置は、(中略)とって替わられることになる。

その理由は書いてないが、本文へ進みたい。
信者内仏塔信仰始まりて 僧侶たちにも広がるはあり得る話 その後にその僧侶から大乗が出るはあり得ず別の要因

反歌  論蔵の発達し過ぎが大乗を生む要因と考へられる
論蔵には、論蔵を固定した後に書かれた文献を含む。

六月二十五日(水)
「第一章釈尊とその時代」には
説法が多く行われた場所は、サーヴァッティー(コーサラ国の首都)、ラージャガハ(マガダ国の首都)、ヴェーサーリー(ヴァッジ国の首都)、コーサンビー(ヴァンサ国の首都)の順であり、中でもサーヴァッティーとラージャガハの二都市が圧倒的に多い。(中略)安居の場所もこの二都市が多かったと伝えている。

これ以外に、バンチャーラ、クルにも及んだ形跡があるさうだ。更に
直弟子たちの
出身地や活動地域を調べてみると、(中略)東はガンジス河下流地域、西はアラビア湾沿岸、南はゴーダーヴァリー河畔、北西はタキシラあたりまで及んでいたようである。仏教が次の時代に発展する基盤は、すでに釈尊の在世中に形成されたと見てよいのである。
問題点を赤色にした。活動地域はよいが、出身地だけだと発展する基盤とは云へない。小生は、アショーカ王の出現まで待つと思ふ。
九分教について
(1)スッタ(釈尊の教えを簡潔にまとめた散文)
(2)ゲッヤ(「応頌」、スッタの内容を重ねて詩で繰り返す形式)
(3)ヴェッヤーカラナ(「記説」、簡潔な問答形式)
(4)ガーター(「偈」、詩句)
(5)ウダーナ(「自説」、釈尊が感興的にに述べた詩)
(6)イティヴッタカ(「如是語」、ゲッヤの特殊な形式)
(7)ジャータカ(「本生」、釈尊の前生物語)
(8)ヴェーダッラ(「毘陀羅」、重層的な教理問答)
(9)アッブタダンマ(「未曽有法」、希有な功徳・奇跡に関する教説)

九分教は、完全に忘れてしまった。だから昨日は、従来仏法がダンマパダとスッタニパータ以外を論蔵へ移すことで、大乗と統一できると書いた。九分教を見た瞬間に、(1)から(6)までを経蔵に残し、(7)から(9)を論蔵へ移せば、大乗と統一できる、と言ひ換へることができる。この本にも
はじめの五種の形式があとの四種の形式も古いと考えられている。

とする。(6)イティヴッタカは異なるが、「ゲッヤの特殊な形式」の「特殊」が詳細に分かれば、意見の相違は解消するだらう。
仏法と科学が分離する前は年越す度に教義複雑
(終)

「初期仏法を尋ねる」(百五十六) 「初期仏法を尋ねる」(百五十八)

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