二千八百十四(朗詠のうた)大唐西域記、その四
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月二十日(金)
巻第四へ入り、先頭は磔迦(タツカ)国である。
風俗は粗暴で言辞は野鄙(ひ)である。(中略)少しく仏法を信じてはいるが、多くは天神に奉事している。伽藍は十ヵ所、天祠は数百ある。

日本で、江戸幕府に拠る寺請け制度が無かったら、そして葬式と墓地を寺が扱はなかったら、このやうな状況になったのではないだらうか。このあと福舎の話が二行続くが、既に出たので省く。
次の国から中印度へ入るが、詳細は既に出た。

巻第五へ入り、戒日王は玄奘に、大唐国はどこにあるか質問し、玄奘は東北数万里、印度で云ふ摩訶至那国がそれです、と答へる。解説に秦の音訳と思はれる、とある。
阿喩陀(アユダー)国の、概観を過ぎて物語のなかに
無著の弟子は窓の外にいたが、夜半過ぎに『十地経』を暗誦していた。世親はこれを耳にするや、惣ち悟り後悔した。

巻第四から感じて来たのだが、従来と大乗を「学ぶ」とある。科学と未分化の時代なので、修行を離れた学習のことであって、日本で考へる上座部と大乗の違ひとは異なる。『十地経』については、解説に
『華厳経』に含まれる『十地経』であり(以下略)

とある。
三番目の阿耶穆佉国について
人は淳朴で俗は質実であり、学芸に勤め副業を好んでいる。伽藍は五ヵ所。僧徒は千余人おり、小乗の正量部の法を学習している。天祠は十余ヵ所、異道の人たちは雑居している。

までは、他の国にもよくある状態だが、注目すべきは
昔、仏陀駄姿(ブッダダーサ)(原注 唐に覚使と言う)論師がここで説一切有部の『大毘(田の右に比)婆沙論』を作った所である。

部派と大乗が共に論を作りあった。ここまではまともだが、このあとの国々で大乗側が論を作り従来と外道を挫いた、と云ふ偏向した話が二つほど出て来るのは、「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」と同じである。

六月二十一日(土)
巻第六へ入るが、ジャータカ風の物語で終了する。巻第七乃至九も同じ。巻第十の解説に
玄奘の所伝により(中略)おおむね、説一切有部は西北インドより西域にかけて栄え、正量部は中インドより西部・南部インドに栄えていたようである。

五ヶ国目から東インドに入る。五ヶ国目のカーマルーパ国は
天神を尊び仕え、仏法を信じない。

とある。六ヶ国目のサマタタ国は、今のバングラディシュ、ガンジス川河口にあったが
風俗は素直である。人の性格は烈しく、姿は卑しく色は黒い。学芸を好み勤勉で、(中略)伽藍は三十余ヵ所、僧徒は二千余人、みな上座部の学を遵奉している。天祠は百ヵ所、異道の人々が雑居し(以下略)

とは云へ、八番目の国では正量部で、異道の人が非常に多い。九番目の国は
風俗は荒々しい。形貌はたくましく、色は黄黒い。言語と調子は中印度に異なっている。

この部分の解説に
西部オリッサの住民には今もドラヴィダ族が多く、玄奘の記述に該当する。

とある。本文に戻り
多くのものは仏法を信じている。伽藍は百余ヵ所、僧徒は一万余人、みな大乗の教えを学習している。天祠は五十ヵ所、異道の人々が雑居している。

十一番目の国から、南印度へ入る。十四番目の国は大衆部を学び、十六番目のドラヴィダ国は上座部を学ぶ。ドラヴィダの解説に、大語族にも、民族名にも、使ふとある。十七番目の国で終了する。

巻第十一に入り、四番目の国は
大乗と[小乗の]上座部の教えを学習している。

とある。九番目の国から、西インドに入る。十番目のスラツタ国は
多くは大乗(括弧内略)上座部の教えを(括弧内略)学んでいる。

とある。
巻第十二は、特に記すことがない。
上座部と大(だい)衆(しゅ)部に会ふ玄奘は 分かれて裂けた後にても元の二つが残るを示す

反歌  上座部が末に分かれて裂ける前仏の示す初めの教へ(終)

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