二千八百十二(うた)大唐西域記、その三
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月十八日(水)
巻第三へ入り、烏仗那国は、大乗を学び禅定を事とし、律は五部の解説に
仏滅後(中略)第一結集が行なわれたが、この長老たちの保守派に慊(あきた)らない進歩派が仏滅百年の阿(ア)育(ショーカ)王の時、対立分裂した。
これは矛盾した書き方である。第一結集に慊(あきた)らないなら、この時に分裂した筈だ。百年後に分裂したのは、阿育王の時代に仏法が広まって一つは地域差から起きた。この本の訳注者水谷真(しん)成は、奥付けを見ると、京都大学文学部を卒業後、経歴が無い。つまり大谷派の寺男であらう。著書は幾つかあり、大谷大学の論文集にも載るので、大谷派の論者か。
長い間、大衆部から大乗が起きたと信じられたから、水谷は大衆部に肩入れするのだらうが、偏向が過ぎる。そもそも大乗はその後、大衆部からではなく、まづパゴダ信仰の信徒から始まったと云はれ、更にそのあと比丘がやはり関はったとされ、今に至る。だから水谷が大衆部に偏向する必要はないのだが。
二番目の鉢露羅国は、国の解説に
今日のバルティスタンに当たる。
とある。チベット民族の居住地域で、カシミールの一部である。
言語の解説に
チベット語であり、今日も甚だ古い形を保存していると言われている。
とある。四番目の僧(シン)訶(ハ)補(ブ)羅(ラ)国で、「城南の搭と伽藍」の章に
無憂王の建てたものである。装飾に損傷しているところはあるが、霊験は引き続いている。傍に伽藍があるが、僧侶はいない。
仏法が滅びるとは、このやうな状態だったのではないか。国王が仏法を信仰すれば伽藍と僧は栄え、国王が居なかったり、ヒンズー教を信仰すると、僧は居なくなり、伽藍は荒れる。
「白衣外道」の章に
白衣外道の開祖が希求する理法を悟り初めて説法した処がある。現在封をしたしるしがあり、傍に天祠を建てている。その修行者は昼夜精勤し(以下略)
この部分の解説に
玄奘の記述は白衣外道の中に露形派と白衣派の二つがあるような記述をしているが、これはジャイナ教(アルファベット略)の二派と解すべきである。ジャイナ教の開祖は(中略)西北インドへは行っていないからこの(アルファベット略)の聖跡もガンダーラを中心とする仏跡同様に後世の付会した伝説である。
とする。別の解説に
ジャイナ教は仏教とほぼ同時代に起こったもので、仏教・ジャイナ教ともにインド教の一派と認めるべきであり、何れが何れを模倣したというべきものではない。
中村元さんだったか、仏法はインドに広まったが滅び、ジャイナ教は広まらなかったが今も続く。教義は似る、と書いてあった。だからインド教の一派には賛成。ジャイナ教は広まらなかったので、一部の集団が信仰し続いたのだらう。仏法は広まり、社会習慣化したため、国王がヒンズー教に転じたり、イスラム軍が侵攻すると滅びたのだらう。
同じ国の別の場所では、「伽藍があり僧徒百余名、みな大乗の教えを学んでいる」「山中に伽藍があり、僧徒は二百余名で、みな大乗の教えを学んでいる」とある。
(漢字略)カシミール国に入り
顔容は美(うるわ)しく、心情は嘘(うそ)詐(いつわり)がある。学問を好みよく勉強し、邪教も正教もともに信じている。伽藍は百余ヶ所、僧徒は五千人余人いる。四つの罕塔婆があり、みな無憂王が建てたものである。それぞれに如来の舎利が一升余入っている。
この文章に注目したのは、玄奘がそれまで、顔容は美しいと善良で、醜悪だと邪悪だと、人種差別したのではないかと、心配になったが、さうではなかった。
日本には 白人勝れ有色は劣り日本は特別と 人種差別をする者が多くゐるので雷同避けよ
反歌
日本には欧米被れ反アジア典型的な人種差別者
舎利が増えるのは、今でもスリランカ政府公認で存在する。小生は、否定することは絶対にしない。信じる人がゐるのだから、小生もそれに賛成する。
伝説がたびたび挿入され、これらは事実ではないが、ある伝説に「五百羅漢」が登場する。解説に、仏在世中のほかにも阿育王、カニシカ王の時代など幾つもあり、常語だ云ふ。なるほど、阿羅漢を目指すのは、無欲になるためより、超能力を身に付ける為、の意味が強く、そのため阿羅漢の語も経に組み込まれた。
マダガ国の無憂王の話に
当時五百の羅漢僧と五百の凡夫僧とがおり、王はともに尊敬し供養するところに差はなかった。
この解説に
僧のこのような二種の区別は他に見ない。ここでは羅漢僧は後に上座部に、凡夫僧は後に大衆部に属するものたちになる。
これはひどい解説である。水谷なる男を今日の日付けで京都大学は、死後退学(1995年没)するに値する。
巻第三の最後は、(漢字略)ラージャブラ国で
濫波国よりこの地に至るまで、顔容は醜悪で性情も粗暴、言語も野卑で礼儀は軽薄である。印度の正しい[あり方を伝える]境域ではなく、辺鄙な地の正しくないあり方である。
ここから東南して山を下り水を渡り、行くこと七百余里で磔(タツ)迦(カ)国(原注 北印度の境)に至る。
玄奘はやはり人種の差別者か大きく揺れる文の内容(終)
「初期仏法を尋ねる」(百五十二)
「初期仏法を尋ねる」(百五十四)
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