二千八百十(朗詠のうた)大唐西域記、その二
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月十八日(水)
巻第二は、印度総説で始まる。
天竺の名称を(中略)旧くは「身毒」ともいい、あるいは「賢豆」ともいったが、今は正音に従って印度というべきである。印度の人はその地方地方に随ってそれぞれの国号をとなえているが、遠方の外国では遥かより全体の名をつかい、その美(うるわ)しとするものを口にして印度といっている。

なるほど昔から、漢字では印度であった。
この「印度」とは、唐で「月」ということである。(中略)その意味では、もろもろの生あるものは輪廻[転生]して(中略)その無明の長夜には晨(あさ)を告げることもない。

尤も印度が月との説について解説には
インドの原典には見えず、おそらくインドの俗語ではそれに近い音で(以下略)

とある。中国を挟み、東に日(本)、西に月、の俗説は間違ひであった。
五印度の境域は(中略)三方は大海で、北は雪(せっ)山(せん)を背にしている。(中略)野を区画して七十余国に分けている。

雪山と崑崙二つ昔から秋津洲にも知られた名 懐かしき名をいつの代までも

反歌  負け戦やそ年過ぎて西のうみ被れ知らざる西の山なみ
五印度の解説に
古代インド人は早くよりインドの形や広さについて非常な正確な知識をもっていた。

として東西南北中の五つ。
印度の文字を調べてみるに、梵天(括弧内略)が作ったもので(中略)地に人に随って少しく改変をうけたが、その大体を言うならば本源とは異なっていない。しかし中印度は特に詳細正確で、言葉の調子も温和で正しく[梵]天[の言葉]と同じで(以下略)

解説には
インドの文字は通常[梵字](括弧内略)といわれるように、梵王天帝(アルファベット略)の作るものと伝説されている。今日はSemitic系の文字に起源し西紀前五〇〇年ごろに四十七字母を完成したものであろうといわれている(括弧内略)。字体については、六十四種の多きを数えるもの(括弧内略)もあるが、(中略)北方では期限後四-五世紀にグプタ文字(括弧内略)が発達し、六世紀には中国・日本でいう悉曇文字(アルファベット略)があらわれ、七世紀にはナーガリー文字(今日一般に使われるDeva-na-gari-文字はこれにもとづく)が起こった。玄奘訪印当時のインドでは悉曇文字期であるが、北・西部はナーガリー文字が流行しはじめていた(括弧内略)。

ここで注目すべきは、インドアーリア系とドラビダ系の区別をしないことだ。昔は、民族の概念がなかったことは何回も云ってきたが、その上位層の概念も無かった。
如来の教理は[聞く人のそれぞれの]もち分に随って理解を得るものであり、[その上今日は](中略)如来の正法の伝わり方に純なるものとさほど純でないものとがある。(中略)進む道こそ異なるが帰するところは同じであるのに、十八の部派がおのおの鉾先をほしいままにしている。大乗と小乗の二派はあり方がそれぞれまちまちで、坐して沈思黙考するもの、行動して修行するものなどあるが、心の落ちつけ方・智恵のあり方には大きなへだたりがあり、さわがしいもの・静かなものなどまことに差がある。

部派が十八部あり、それ以外に大乗があると、誰もが思ってきた。しかしこの記述だと、従来と大乗を併せて十八部であり、或いは十八部の中に従来と大乗が混在すると解釈できる。これが正しいのかも知れない。
このあと、一部を講義する僧は雑務を免除され、二部のものは房舎臥具、三部は従者、(以下略)の話が続く。玄奘はこのことに、疑問を持たなかったのだらうか。良寛和尚と大きく異なる。
「北印度」へ入り、最初は濫波国。
国ぶりは物が豊かに民は楽しみ、人々は歌を唄うことが好きである。

と誉めるのに、すぐ
性格は臆病で心は詐(いつわり)をいだき、お互いに詐(だま)し誚(そし)り(中略)顔貌(かたち)はいやしく小さく、動作は落ちつきがない。

とおよそ僧侶とは思へない書き方である。解説にも
濫波国の条から北インドに入る。玄奘の言う「北印度」は巻四の五(括弧内略)までの境域である。(中略)インド的風土とはいうが、昔も今も言語風俗ともに特殊な趣を存する民族が居るので有名である。

とし、玄奘の巻三の八で書いた悪口を紹介する。玄奘も玄奘なら、それを無批判で紹介する訳注者、水谷真(しん)成(じょう)にも困ったものだ。(終)

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