二千七百九十(うた)長澤和俊訳「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」その七
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月四日(水)
巻の第八には
仏滅後、いまや二千年になろうとし、正法の期はすでに遥かにすぎさり、末法の期が始まり、幽玄の理はかくれて現われず、覚(さとり)への道はようやくまさになくなろうとしている。玄奘法師は(中略)西域の名僧で対面して般若を論ぜぬものはなく、東国における仏教の疑義はすべてみな彼の地の高僧に質すことができた。こうして律蔵を奉持し、毘(原文では上ではなく左が田、下ではなく右が比)曇の明義も学びとり、論の連続(括弧内略)はこれを声明に得、無上等正覚(括弧内略)についてもまた疑問を解明した。仏法の大小乗に関係なく、すべてこれを胸快に包み、理は浅深をとわずことごとくこれを検討された。

「仏法の大小乗に関係なく」こそ、あるべき姿である。これまでも此れに沿った記述が多い一方で、大乗が正しく、従来は外道だ、と云ふ悪質な記述もあった。
それとは別に、二千年について巻の第三には「一説に千二百年、千三百年、あるいは千五百年といい、或いは九百年は過ぎたがまだ千年に達していない」とあるから、二千年は誤記か。玄奘の時代に二千年なら、現在は三千四百年後になってしまふ。末法について、千年後説と二千年後説があることを見落とした日本側の誤訳かも知れない。
その場合でも、唐側で末法が始まると考へた時代背景は重要だ。そして、玄奘法師のインド訪問によってそれが解消された、つまり唐では末法問題が解消された。インド側はこれを解決できず、仏法が滅んでしまったが。

六月五日(木)
巻の第九に入り、法師は勅許を頂き父母の墓を改葬した。
さきに後魏の孝文帝は(中略)洛陽に都し、小室山の北に少林寺を建立した。地勢の高低によって少林上寺と少林下寺の別があり、すべて十二院、(中略)その西台は最も秀麗なところで、かつて菩薩流支が訳経をし、また跋陀禅師が坐禅された所で、(中略)西北の山下は(中略)法師の生れた所である。

法師は帝に、少林寺で翻訳したいと願い出た。しかしお許しにならなかった。
菩提流支(ぼだいるし)は、北インド出身の訳経僧。跋陀禅師(ブッダバドラ)は北インド出身の僧。
少林寺達磨大師が第一に縁深きも 菩提流支跋陀禅師を挙げるのみ まだ国の中広まらざるか

反歌  良寛坊達磨大師の流れにて和尚と法師絆深まる

六月五日(木)その二
巻の第十では、法師が亡くなる。若いときに
サンスクリットやもろもろの経論を学び、シャカ一代の所説、蓍方山などでの教、小乗(鹿苑半字の文)の文から、後世の馬鳴、龍樹、無著、天親らの人々が著した書、および灰山住部(前略 小乗二十部の一)、十八異執の宗(小乗十八部派)五部殊塗(五部律)などまで学んだ。(中略)まさに本土に帰ろうとした。


六月六日(金)
本文が終はり、巻末の「解題 玄奘三蔵略伝」には
中インドの各地の聖跡を巡礼してみたものの、多くの寺院や遺跡は荒れはてており、残っている寺の大部分は小乗仏教や外道の寺ばかり(以下略)

法師は従来各派の三蔵も、学び、集めたから、大乗だけを求めた訳ではない。それより、中インドでは元々、大乗が広まらなかったとも考へられるのではないか。
まもなくインド第一の大乗教学の中心ナーランダー寺において(以下略)

「大乗教学の中心」は正しくない。長澤さん自身「大乗を学び小乗十八部をも兼学している」と書いたではないか。
慧立が始め伝本五巻を著わし、ついで彦悰が箋して『慈恩伝』十巻に完成した(以下略)

従来と大乗を対等に扱ふ頁と、大乗に肩入れする頁がある事情は、ここにあるかも知れない。(終)

「初期仏法を尋ねる」(百四十一) 「初期仏法を尋ねる」(百四十三)

メニューへ戻る うた(一千三百二十九)へ うた(一千三百三十一)へ