二千七百八十二(うた)長澤和俊訳「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」その三
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月二日(月)
巻の第三に入り、ガンガー河を渡り南岸のアヨードヤー国へ至る。
ここには寺院百余所、僧侶は数千名もおり、大小乗をともに学んでいた。(中略)古い伽藍があり、ここはヴァスバンド菩薩(前略 無著の弟いわゆる世親)が大小乗の論を作り、大衆のために講義したところである。
文章から、従来と大乗の違ひは経典のみで、修行は同じだったと取れる。数行後には、別の古い伽藍は
アサンガ菩薩(前略 無著菩薩)が説法された所である。(中略)弥沙塞部から出家して後に大乗を信じるようになった。弟の世親は説一切有部で出家したが、後に大乗を信じた。
ブッダの原始仏法の時代から、部派仏法の時代になると教義が複雑化する。まづ従来を学び、次に大乗を学んだのだらう。複雑化した部分なので、仏法であることには変はりはない。ところがアーヤムカ国からプラヤーナ国に入ると
伽藍があり、そこはデーヴァ菩薩(括弧内略)が『広百論』(括弧内略)を作って小乗を信じる外道を挫いた所である。
従来を外道と呼ぶやうでは、デーヴァ菩薩の信奉者は仏法ではない。
東方へゆくこと五百余里で、ヴィシャカ国(括弧内略)に至った。ここには伽藍二十余ヵ所、僧が三千人余りおり、小乗正量部(括弧内略)を学んでいる。(中略)デーヴァシャルマン(括弧内略)阿羅漢が(中略)我も他人もないと説き、ゴーバ(括弧内略)が(中略)我も他人も存在すると説き、(中略)ついに深く論争した所であり、また護法菩薩が七日間、小乗の論師百人を論破した処である。
阿羅漢を無益な議論をする者とみなし、小乗の論師は論破されるたとする。そこには従来への蔑視がある。インドの周辺部は従来と大乗が共存するが、中心部に近づくと大乗側が悪い形になる。
伽藍の東七十余歩に精舎があり、高く大きく中に仏像が東面して安坐している。ここは昔、シャカが外道とともに論議された所である。さらに東方に天祠(ヒンドゥー教の祠)があり、その大きさは精舎と同じである。
仏法とヒンドゥー教の共存を示す。ブッダの時代は、バラモンのうち、かう云ふ人は勝れ、かう云ふ人は劣る、と共存した。
伝説によればシャカはこの世に八十年生き、ヴィシャーカ(前略 インドの第二月)月の後半十五日に涅槃に入り給うたという。即ち二月十五日である。しかし説一切有部は(中略)第九月)の後半に涅槃に入り給うたとしている。この説によれば九月八日に当る。涅槃から今日までは一説に千二百年、千三百年、あるいは千五百年といい、或いは九百年は過ぎたがまだ千年に達していないともいう。
玄奘がインドへ向かったのは貞観三(630)年。今から1395年前なので、釈迦涅槃は、2600年、2700年、2900年、2300年の各説があることになる。
南伝仏法では、今年を仏歴2568年(涅槃を零年。スリランカ、ミャンマー)または2569年(涅槃を一年。タイ、カンボジア、ラオス)とする。涅槃日はヴィシャーカ月(太陽暦では二月または三月)の満月の日とする。
大きな林の中を五百里余り行くと、パーラーナシー国(前略 今のペナレス)である。(中略)伽藍三十余ヵ所、僧二千人余りおり、小乗一切有部を学んでいる。
パーラーナシーから河を渡って東北へ十余里ゆくと、鹿野伽藍(前略 Sa-rna-th)である。(中略)小乗正量部を学んでいる。
戦主国を経て、ヴァイシャーリ国で菩薩蔵経を購入し、マガダ国へ入る。
伽藍は五十ヵ所あり、僧侶は一萬余人、大部分は大乗を学んでいる。
ナーランダー寺では
僧侶は客僧を入れて常に一万人おり、ともに大乗を学び小乗十八部をも兼学している。そして俗典、ヴェーダなどの書、因明(論理)声明(音韻)医方(薬学)術数(数学)に至るまで、ともに研究している。
近くの竹林は、釈尊滅後に迦葉(カーシャパ)を中心に九百九十人が集まり、経と戒律と議論を記録した。
またこの竹林の西二十里にストゥーパがあり、アショカ王の建てたものである。(中略)大迦葉結集の時に参加できなかった(中略)数千人がともにここに集まり、(中略)スートラ蔵、ビナヤ蔵、アビダルマ蔵、雑集蔵、ドㇵーラニ蔵を集め、分類して五蔵とした。(中略)これを大衆部という。
根本分裂は、仏滅後百年のことなので、この説は正しくない。それより大乗は、どこから発生したのか。長いこと、大衆部から発生したと考へられ、後にストゥーパ信仰の在家から発生したと考へられ、今では再び僧侶から発生したと考へられるに至った。
玄奘は五年間ナーランダー寺で学んだ後、イーリナパルヴァタ国に至る。
伽藍十ヵ所、僧侶は四千余人おり、多くは小乗の説一切有部を学んでいた。
仏跡が近くに多く在る地帯 仏法滅び九百年 イスラム軍が来る前に既に衰へ来た後に一部復活再び消える
反歌
ナーランダイスラム軍が破壊後に再建されて再び消える
世界史では、イスラム軍がインドへ進撃しナーランダー寺を破壊したため、仏法は滅んだとされる。しかしこの話は変で、それならなぜヒンズー教は滅びなかったのか。ヒンズー教に吸収されたのが現実だ。(終)
「初期仏法を尋ねる」(百三十七)
兼「初期仏法を尋ねる」(百三十八の二)
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