二千七百八十(うた)長澤和俊訳「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」その二
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月一日(日)
東南に五百余里進みガンダーラ国に至った。
古来論を作った諸師、ナーラヤナ(括弧内略)、アサンガ菩薩(無著 以下略)、ヴァスバンドゥ菩薩(世親 以下略)、ダルマトゥラータ(法教 以下略)、(中略)等は、みなこの国に生まれた人々であった。

城外八、九里に菩提樹があり、過去四仏が坐ったと云ふ。カニシュカ王の造ったストゥーパがある。東北へ百余里行くとアショカ王の造ったストゥーパがあり、過去四仏が説法した場所だ。
六百余里行くと
昔は伽藍一千四百カ所、僧徒一万八千あったが、いまはともに荒れはてて減ってしまった。この地の律儀・宗派は、一、法密部(前略 宝蔵部ともいう、所依の律は≪四分律≫)、二、化地部(前略 所依の律は≪五分律≫)、三、飲光部(前略 説一切有部の分派)、四、説一切有部(括弧内略)、五、大衆部(括弧内略)の五部であった。

このあと、タクシャシラー国、シンハプラ国(此処は寄ったか不明)、ウラシャ国を経て、カシュミーラ国へ至る。大乗の学僧、薩婆多部の学僧、僧祇部の学僧がゐた。ここで注目すべきは、大乗は全体で一つの部扱ひだ。
このあとパルノーツァ国、ラージャブラ国、タッカ国(前略 北インドの境)に至る。
ランパカ国からこの地方までは、インドでも辺境なので、その風俗、衣服、言語など、いずれもややインドと異なり鄙(ひな)びて軽薄の風がある。

ダッカ国の東境に至ると
数十戸の家があったが、仏教信者は少なく、外道(ヒンヅー教)に仕える者が極めて多かった。

これまでの、従来、大乗の共存路線から、ヒンズー教が登場する。玄奘の生まれた七世紀前半より前の、四乃至五世紀に仏法を凌ぐやうになったと云はれるので、当然ではあったが。一方、密教が出て来たのは七世紀なので、玄奘の時代には無かったか。
このあと、チーナブクティ国に至り、三蔵に通じた僧から対法論、顕宗論、理門論を学び十四ヶ月滞在した。五十余里離れた寺は
僧侶が三百余人おり、説一切有部を学んでいた。

東北へ百四、五十里でジャーランダナ国(前略 北インドの境)に至り、(中略)寺には大徳(中略)がおり、三蔵に精通していた。そこで法師はここにも四ヶ月滞在し、『衆事分毘(原文では上ではなく左が田、下ではなく右が比)婆沙』を学んだ。
このあとクルータ国(前略 北インドの境)、シャタドゥル国(前略 北インドの境)、パールヤートラ国(前略 北インドの境)を経て、マトゥラ国(前略 インドの境)に至る。
ここにはシャカ如来のもろもろの聖弟子(中略)のストゥーパがあり、(中略)毎年祝祭の日に僧侶たちが仕える宗派に従って、供養している。
アビダルマ(括弧内略)の衆はシャーリプトラを供養し、習定の衆はマゥドゥガルヤーヤナを供養し、経典派はトラーヤニープトラを、ヴィナヤ派はウパーリを、もろもろの尼僧はアーナンダを、まだ具戒を受けぬものはラーフラを、大乗を学ぶ者は、すべての菩薩をそれぞれ供養する。

このあとスターネーシュヴァラ国(前略 中インドの境)、シュルグナ国(前略 中インドの境)に着く。ガンガー河が流れ
インドの俗書によると(中略)水浴すると罪障が除かれ、(中略)口をゆすぐとすべての病災が消滅し、(中略)愚かな男女はいつもガンガー河の河辺に集まっている。しかしこうした話は、すべて外道の邪言であって(中略)のちにアールヤデーヴァ菩薩(括弧内略)がその正理を示したので、人々も止めてしまった。
シュルグナ国に(名前略)という大徳がおり、よく三蔵を学んでいた。そこで法師も(中略)五ヶ月余り滞在し、経部の『毘(原文では上ではなく左が田、下ではなく右が比)婆沙』の講義を受けた。

毘婆沙を調べると、阿毘達磨大毘婆沙論は『婆沙論』と呼ばれ、説一切有部の教説をまとめたとされる『発智論』に対する注釈書である。『発智論』は阿毘達磨発智論のことで、説一切有部の僧により執筆された。玄奘訳二十巻がある。
ガンガー河の東岸にわたって、マティブラ国(括弧内略)に至った。(中略)伽藍十余ヵ所、僧侶が八百余人おり、みな小乗の一切有部(括弧内略)を学んでいた。

このあと異変が起きる
小寺があり、僧侶が五十余人いた。(中略)グナプラブハ(括弧内略)論師が(中略)始めは大乗を学んだが、のち退いて小乗を学んだといわれる。(中略)グナプラブハは(中略)弥勒菩薩に会うことが出来たが(中略)「私は出家し具戒しのに、弥勒菩薩は天にいて俗人と同じである。礼敬すべきではない。」と言って(中略)慢心が高かったのでその疑問もなかなか解けなかったのである。

これは大乗側が従来を批判する意図がある。別の伽藍があり
二百余人の僧が小乗を学んでいる。ここはサムガブハドラ(括弧内略)論師が永眠した処である。(中略)博学高才のほまれ高く、一切有部の『毘(原文では上ではなく左が田、下ではなく右が比)婆沙』を明らかにした。当時、世親菩薩ももまた博識で(中略)毘(原文では上ではなく左が田、下ではなく右が比)婆沙論者(括弧内略)の所論を論破した。(中略)サムグㇵブㇵドラは(中略)さらに十二年専念して(題名略)作った。(中略)世親がのちに(中略)「この思考力は毘(原文では上ではなく左が田、下ではなく右が比)婆沙の学徒を減さないであろう(以下略)

今までと異なり、一切有部と大乗が激しく対立する。
もう一つのストゥーパがあったが、これはヴィマラミトラ(括弧内略)論師が永眠した処である。(中略)説一切有部において出家し、(中略)サムグㇵブㇵドラらのストゥーパの傍を通り(中略)「さらに諸論を作って大乗の理論を破り、世親の名を滅し、論師の趣旨を永遠に伝えよう。」といった。ところが言葉を吐き終ると、頭がすっかり狂ってしまい、(中略)身体中に血が流れた。

この文章が嫌なのは、せっかく論でどちらが正しいか競ってきたのに、大乗を批判すると罰が当たるとする。これではカルトだ。
この先、幾つも国が出て来て、再び
僧徒は万余人で、大乗、小乗をともに学んでいる。

と共存路線に戻るものの、一旦罰論を入れた不信感は残った。
秋津洲 鎌倉仏法罰論や親鸞門下は武力にて 醜き姿天竺も見る

反歌  最澄の戒の軽視と鎌倉の拝む源天竺にあり(終)

「初期仏法を尋ねる」(百三十六) 「初期仏法を尋ねる」(百三十八)

メニューへ戻る うた(一千三百十九)へ うた(一千三百二十一)へ