二千七百七十六(うた)長澤和俊訳「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
五月二十八日(水)
玄奘の弟子慧立と彦悰が著した「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」を、早稲田大学教授でシルクロードが専門の長澤和俊さんが訳した書「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」を借りた。
巻の第一は、誕生から出家、
長安には(中略)二人の高僧がおり、大小二乗を学び、三学(括弧内略)を研究しつくして(以下略)

ここで注目すべきは、従来と大乗の片方ではなく両方を学び、三学には律もあるから釈尊以来の律を保つことだ。決して従来と大乗は、対立しない。その高僧からも玄奘は嘆賞され、西方へ旅立つ。
巻の第二へ入り、クチャ国では、王宮で供養された食事に肉が入り、とらなかった。王から訊かれ
「三浄は小乗教の許すもので、私が学んだ大乗教では許されていません。」
といって、他の品を食べた。

大乗は、従来と敵対するのではなく、付加の関係にあることが分かる。
トカラ国から数百里の活国では
ダルマサンガ(括弧内略)という僧がいた。彼はインドに遊学したことがあり(中略)法師は彼が大乗は学んでいないことを知り、わざわざ小乗教の『婆沙』(括弧内略)等についていくつかを質問したが、よく答えられなかった。そこでダルマは法師に謝服し(以下略)

ここでも大乗は、従来に付加の関係にある。次にバクトラ国へ行くと
僧徒は三千余人で、皆小乗を学んでいた。(中略)伽藍にタッカ国(括弧内略)の小乗の三蔵がいた。(中略)九部を研究し、四舎をひろく学んで、その名声はあまねくインドに知れ渡ったほどであった。(中略)ついに玄奘はこの地に一月余り滞在し(以下略)

バクトラからガズ国へ入り大雪山へ六百余里でバーミヤン国へ入り都城に着いた。
伽藍が十余ヵ所、僧侶が数千人おり、小乗説出世部(サンスクリット略、小乗二十部の一根本大衆部よりの分派)を学んでいた。(以下略)
バーミヤンには、摩訶僧祇部(サンスクリット略)の学僧(中略、二人)がおり、ともに法相(サンスクリット略)に通じていて(以下略)

玄奘は法相宗の創設僧唐と日本で崇拝される

東南方に二百余里ゆくと、大雪山をこえて(中略)伽藍があり、なかに仏歯と劫初のときの独覚(括弧内略)の歯があり(以下略)

本物ではなく、後から作ったものだ。偽作の意図はなく、複製であらう。仏歯もさうだが、独覚はさう現れるものではない。
敬愛と信仰のため複製は偽作に非ず騙すに非ず


五月二十九日(木)
このやうにして十五日後にバーミアンを出発し、カピシー国に入った。
各寺の僧は互に相争って(中略)法師を迎えようと欲した。たまたまシャーラカ(括弧内略)という小乗の寺があり(中略)同伴の慧性法師が小乗の僧で、大乗の寺に泊りたがらなかったので、遂にその寺に泊ることにした。

従来と大乗は共存が可能で、しかし従来の中に大乗を気にする僧もゐたのだらう。大乗の中に従来を気にする人は、この時代にはまだゐないと思ふ。
カピシー国の王は(中略)ただ大乗仏教のみを深く信じ、(中略)そこで王は法師と慧性三蔵を説得し、一大乗寺において法集を行った。

カピシー国には、大乗の三蔵、説一切有部の僧、化地部の僧、の第一人者がゐた。
しかし彼等の学は大乗・小乗各々別で(中略)一方に精しくとも偏っているところがあった。ただ法師一人はつぶさにもろもろの教えに通じており(以下略)

そして安居は終はり、慧性法師は、王に請はれてトカラに戻った。法師は東進を六百余里、黒嶺を越え北インドのランパカ国へ入った。伽藍が十余ヶ所、僧徒はみな大乗。ここに三日間滞在した。
中国と途中を苦難草枕旅は進みてインドに入る


五月三十日(金)
南へ行きナガラハーラ国に着く。
大城の東南二里にストゥーパがあった。高さ三百余里尺で、アショカ王(括弧内略)の造る所という。ここはシャカ菩薩が第二僧祇(括弧内略)のとき、ディーパムカラ・ブッダ(燃燈仏 以下略)にあい(以下略)

ここから先は、釈尊所縁の地が続出する。
インドには縁(えにし)の土地が多(さは)ありて玄奘苦労疲れを飛ばす
(終)

兼「初期仏法を尋ねる」(百三十五) 「初期仏法を尋ねる」(百三十七)

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