二千七百五十三(朗詠のうた、普通のうた)キーンドナルド「正岡子規」(その二)
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
五月十一日(日)
「第七章俳句の革新」では
実景を詠む場合でも、醜いところを捨てて美しいところのみを取らざるを得ない。また時によっては、少しずつ実景の実物の位置を変えたり、そこにないものを(中略)取り入れて実景を修飾することさえある。

とする。実景の好例として
あら海や佐渡に横たふ天の川

を挙げる。
あら海に浮かぶ木切れや巻き上げる泥水は見ず 風に飛ぶ枯れ葉や土を見ずに句を詠む

反歌  醜きも歌にするとき美しくまたは文にて歌が役立つ
次の論題として
十七音の一つでも無駄にすることは無能な詩人の証拠である、と子規は言う。

として
鶯もよい時来たり庵の閑
といふ句は言はずとも済むことを多く言ひ並べたるものにて何の趣味も無し、鶯は物淋しき静かなる処に鳴くものにして(以下略)

とする。
序詞や枕詞や同音は無駄には非ず美しさあり

次の論題として
子規がほとんど論じていない問題の一つは、俳句というものは簡単にわかるものでなければならないか、ということだった。

として
鶏頭の十四五本もありぬべし

を挙げる。小生は、簡単に分かるかどうかより、この句は美しさがない。それがまづ引っ掛かる。本題に入ると、簡単にわかる作品のほうがよいが、判り難さに美しさがある場合もある。

五月十一日(日)その二
「第八章新体詩と漢詩」では子規の
芭蕉の俳句は大半が悪句駄句で埋められており、最上のものはわずか何十分の一に過ぎない。いや、まずまずのものを探しても夜明けに空に残る星のようにまばらである。

或いは
質問者が、なぜ芭蕉の俳諧連歌(連俳)にまったく注意を払わないのか(中略)に対して、子規は(中略)「発句は文学なり、連俳は文学に非ず、故に論ぜざるのみ」。
芭蕉は、よく俳諧連歌の座に加わった。(中略)芭蕉が作ったどんな俳句も、潜在的には発句だった。

これは子規の暴論である。とは云へ、現代人も芭蕉の俳諧発句を発句として扱はないのだから、同罪である。そして
子規は数多くの俳句を作ったが、十七文字の詩では(中略)俳句で足りない部分を漢詩で補うことだった。

更に
子規は新体詩の可能性に気づき始めた。だが

キーンさん新体詩より多く書き章の終はりも漢詩にて 明治の世相反映させる

反歌  新体詩定型にして五と七に歌謡の作詩美しさかな

五月十二日(月)
「第九章短歌の改革者子規」では
初期の随筆で子規は、日本人が好んで「短篇韻文」(和歌ないし短歌)を作るようになった(中略)最も重要な理由は日本が風光明媚だからで(中略)その作風は、「叙事よりも叙情を主とせり、叙情より叙景を主とせり」

まづ和歌または歌を「短篇韻文」と呼ぶやうでは駄目だ。子規のことを坊主頭病人と呼んだら、子規愛好者は不快なのと同じだ。次に本題へ戻り、一番の理由は、日本語が母音優位言語で母音が一音に対応するからだ。子規の欠陥である破調への寛容感覚が、ここに現れる。
音(ね)の数が合ふは最も美しき歌の調べに 我が歌はあいうお含む時さへも字余り避けて調べを守る

反歌  あいうおの字余り少し前までは使ふも今はほぼ使はずに
さらに子規は(中略)錯雑かつ変化の多い人間社会の現象を模写せずに、簡単かつ静黙とした自然を模写したからである、と書いている。これは子規にも当てはまることだった。(中略)自然を扱っていない詩歌は、ほとんど見当たらない。あらゆる時代の日本の詩人に霊感を与えた唯一の人間的な関心は、恋愛だった。しかし子規は例外で、恋愛詩を作らなかった。

俳諧発句の人たちが帰った後に、歌系の人たちが来た、と云ふ作品があるので、人間関係がまったく無い訳ではなかったが、概ね正しい。子規の病気が原因だらう。
勅撰和歌集には恋愛以外にも紀行、宗教、その他さまざまな話題を扱った歌が入っている。しかし日本の詩歌が扱わなかった人間的経験の大きな領域があって、例外的に『万葉集』だけは最も内容豊かで日本の歌集の典型から外れていた。

「人間的経験の大きな領域」即ち「錯雑かつ変化の多い人間社会の現象」を勅撰和歌集が扱はなかったのは、時の天皇または選者の意向であり、子規がこのあと力説するやうな「君主は君主らしく、臣民は臣民らしく」ではなければ「多数の小美術家を要請し多数の小文学者を呼動」でもない。多数の小文学者に関しては、短歌や俳諧発句ばかりを作るからだ。万葉の歌人みたいに長歌と短歌を作る、或いは芭蕉みたいに紀行文と俳諧発句を作れば、大文学者に為れる。
このあと「子規が心変わりするのに長くはかからなかった」で
欧米諸国の詩歌は主として人事を叙し、和漢二国の詩歌は主として自然を叙す。

として前者は長く、後者は短くなる、とするが、外国人向けにに紹介したと見るべきで、特に取り上げる必要はない。韻文と散文で、日本の長篇は
もしこれを散文というならば、我が国の散文はなかば優美な詩歌の調べを備えたものである。

物語りにも詩歌の調べを持たないと、なかなか読まれなかったのだらう。明治に西洋から小説が入り、物語りが劣化したと云へる。(終)

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