二千六百五十九(朗詠のうた)本歌取り、古今集(その一)
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
二月十八日(火)
水上SL旅行に始まった本歌取りは、古今集に入った。古今集の欠点は、仮名序であり、発表時に削除すべきだった。
つらつらととさ回りする物語 民の稼ぎを横取りし宴に使ふ悪しき者ども

反歌  面の皮厚き男か貫之は言葉余りて頭が足りず
まづ先頭の
年のうちに春は来にけり一年を去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ

年の内春来たるには陽と月の動きにあるも皆春望む

次は
梅が枝にきゐるうぐひす春かけて鳴けどもいまだ雪はふりつゝ

うぐいすはおろか雪さへ春を待つ次は梅が枝皆花を待つ

次は
心ざし深く染めてしをりければ消えあへぬ雪の花とみゆらん

心ざし持てば雪さへ花と見る世の言の葉を花と変へよう

次は
ももちどりさへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふり行く

ちどり古り新たが入り人同じ幼子入り我ぞ古り行く

次は
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

世の中に桜絶へても梅の花桃の花にて心はのどか

次は
霞立つ春の山べはとほけれど吹きくる風は花の香ぞする

春の山霞は遠く来る風は山か麓か香を持ち里に

これで春の歌まで終了。

二月十九日(水)
我が宿の池の藤波咲きにけり山ほととぎすいつか来鳴かむ

池の藤左千夫と亀戸ほととぎすあの世此の世を往き来を思ふ

本歌に藤とほととぎすが現れるので、本歌取りも同じにした。本歌取りだけを見た時に前半と後半が連続しないと云ふ批判は出ないと思ふが、出た時は子規はほととぎすだから亀戸までが序詞、の解釈が出来るやうにした。
他にも二十七首あるほととぎすの歌から、一首を選び
さ月まつ山ほととぎすうちはぶき今も鳴かなむこぞの古声

ほととぎすよろづ葉の世と異なりてあの世へ行かず山と里のみ

これで夏が終了。秋へ入り
昨日こそさ苗取りしかいつのまに稲葉そよぎて秋風の吹く

田植えから秋の風まで僅かの間(ま)夏の暑さと昔は遅く

昔は梅雨が田植ゑの時季だったさうだ。水が要るし、稲は寒さに弱かった。田圃に在る期間が短いほど、虫や病気にもやられない。今は品種改良で早くなったし、台風が来る前に刈り取る、の理由もある。秋風も立秋になって吹く風だから、八月七日頃。
すぐ次の
秋風の吹きにし日より久方のあまのかはらにたたぬ日はなし

秋風の吹き初めの日に七夕も天の川にて二人を分ける

次は
蜩(ひぐらし)の鳴く山里の夕暮は風よりほかに訪ふ人もなし

蜩の棲むは寂れた山故に夕暮れ時の日の入り速し

次は
山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目を覚ましつつ

山里の秋寂しきは夏の暑さ冬の寒さと春の花無し

すぐ次の
奥山の紅葉踏み分けなく鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき

奥山の紅葉と鹿の啼く声はどちらも寂し秋の心も

次は
久方の雲のうへにて見る菊は天つ星とぞあやまたれける

雲の上頭を出した山に見る花ちはやふる神が植ゑしか

次は
ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは

ちはやふる神代も聞かず陸(おか)と水空暑くなり滅び近きは

これで秋が終了。

二月二十日(木)
山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば

山里は冬の寂しさより多く雪降らぬさへその一つにて

すぐ次の
大空の月の光し清ければ 影見し水ぞまづこほりける

大空は青く白雲まばら在り見る人も青まばらの白に

次は
降る雪はかつぞ消ぬらしあしひきの山のたぎつ瀬音まさるなり

雪のうち枝に積もるは水となり山を下るの勢ひ速し
雪のうち土を覆ふの雪に積むほぼ融けずして覆ふを増やす

次は
わが宿は雪降りしきて道もなしふみわけてとふ人しなければ

国上山雪降り人が途絶へるは歌になるとも古る今為らず
古る今に雪降り人が途絶へるはよみ人知らずまた歌に為る

これで冬が終了。(終)

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