二千六百五十一(朗詠のうた)本歌取り、良寛和尚(乙子神社草庵時代)
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
二月十日(月)
「乙子神社草庵時代」へ入り
乙宮の森の下屋の静けさにしばしとてわが杖うつしけり
いざここにわが身は老む足曳の国上の山の森の下庵
夏草は心のままに茂りけり我庵せむこれのいおりに
杖移すしばしも次に老ひるまで仏の道は止まることなし
すぐ次の
秋の田の穂に出ていまぞ知られける片方に余る君がみふえを
湖を干して拓(ひら)きて田に実る殿の片方(へ)を超える恵みを
すぐ次から乙宮の下庵を詠った長歌と反歌の組み合はせが、四組続く。長歌は長いので、検索にたまたま引っ掛かったものを取り上げると
あしびきの 国上の山の 山かげの 乙子の宮の 神杉の 松の下道 踏みわけて い行きもとほり 山見れば 高くたふとし 谷見れば 深くおそろし その山の いや高高に 其の谷の 心深めて あり通ひ 斎(いつ)きまつらむ よろづよまでに
反歌の記述は無いが
乙宮の宮の神杉標(しめ)ゆうて斎(いつ)きまつらむおぢなけれども
あしびきの国上の山の森蔭に 乙子の宮の庵あり 山はたふとししかしまた 和尚が庵に仏への道を歩むが故にたふとし
反歌
乙宮の神も仏の法(のり)を聞き和尚に倣ひ道を歩まむ
四組が終はり、九十一首を飛ばして
その夜は法華経を読誦して有縁無縁の童に廻向すとて
知る知らぬ誘ひ給へ御ほとけの法(のり)の蓮の花の台(うてな)に
縁(ゑにし)有り無しの子らへの廻向にて止めると観るを多く行ふ
総持寺の日曜参禅会で、命日には廻向の為に一柱多く坐禅をする話を聴いた。それを歌にした。良寛和尚の時代はまだ、法華経は釈尊直説と信じられてゐた。日曜参禅会に参加したのは三十二年前である。十五年くらい前に無くなった(月一回の別のものになった)。参加したのは三十二年前だと云っておかないと、今でも参加してゐると思はれてしまふ。
良寛和尚をしばしば取り上げるからであらう。しかし良寛和尚は、曹洞宗組織をはみ出した僧だ。
二月十一日(火)
すぐ次の
世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我は勝れる
薄暗き灯りの下で文を読む和尚絵の横自ら歌を
五首飛ばして
世の中の玉も黄金も何かせむ一人ある子に別れぬる身は
定(さだ)珍(よし)の子が亡くなるを和尚知り共に嘆きて心を歌に
阿部定(さだ)珍(よし)の十一子が亡くなった時。
子の死を嘆く歌がほかに三首あり、そのあと四首飛ばして
帰る道渡り八十あり心して雪解(げ)の水を避きて通らせ
弟は家が没落したのちは 歌を教へて二(ふた)年を三国に過ごし 酒田には一年過ごし そののちはあちこち廻り四年ほど そして与板に庵を結ぶ
反歌
吉野から越前三国へ弟が帰るに和尚歌を手向ける
二首飛ばして
岩が根にしたたる水を命にて今年の冬もしのぎつるかも
岩が根の水は序(つゐ)でる詞(ことば)かも薪と食べ物衣も繋ぐ
百七首先の
山かげの 森の木下の 冬ごもり 日ごと日ごとに 雪ふれば 行き来の人の 跡もなし 岩根もりくる 苔清水 そを命にて あらたまの 今年の今日も 暮れにけるかも
やまと歌読めば清水は命かも 或いは日ごと変はるものそれを命と呼ぶもあり 寒さと衣食べ物と小夜の長さを乗り越える 仏の道が苔清水かも
二月十二日(水)
同じ種類の、長歌一首と短歌二首のあと
いその上(かみ)ふる郷びとの音もなし日に日に雪の降るばかりして
真冬には郷人たちが山へ来ず森の梢は雪落ちるのみ
本歌は「ふる郷」と「降るばかり」が同音繰り返しだ。本歌取りも、「来ず」と「梢」で同音繰り返しにした。
二首飛ばして
飯乞ふと里にも出でずなりにけりきのふもけふも雪の降れれば
里人に善きを積ませて飯乞ふが雪に出られず腹も減るのみ
十六首飛ばして
乙宮の森の下屋に我をれば人来たるらし鐸(ぬて)の音すも
乙宮の母屋は神が下屋には和尚が住めば珍し鈴が
二十首飛ばして
老が身のあはれを誰に語らまし杖を忘れて帰る夕暮れ
老が身の歌で今知る下屋には杖つき歩く和尚の姿
六首飛ばして
老いもせず死にせぬ国はありと聞けどたづねて往なむ道の知らなく
老いもせず死にせぬ国は何(いづ)処(こ)にか仏の道の心の中に
同類で二首飛ばして
昔より常世の国はありと聞けど道を知らねば行くよしもなし
昔より常世の国はありと云ふ仏の道の心の中に
この二首の本歌で、和尚は軽い認知症になったことが判る。(終)
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