二千六百四十(うた)報道を読んで(駅弁、新幹線工事で川が枯渇)
新春前甲辰(西洋発狂人歴2025)年
一月二十六日(日)
Merkmalのホームページに
駅弁の魂は失われた? もはや「東京駅で買えるものばかり」 滋賀・老舗弁当屋の撤退が示す食文化の娯楽化とは?
が載った。
2025年1月、滋賀県米原市の老舗駅弁業者「井筒屋」が駅弁事業からの撤退を発表した。1889(明治22)年の創業以来、135年以上にわたり、東海道本線と北陸本線が交わる米原駅で駅弁を販売してきた(以下略)
8代目当主の宮川亜古代表取締役は、撤退の理由について公式サイトで
「昨今の食文化は娯楽化がもてはやされ、(中略)食の工業製品化が一層加速し、手拵えの文化も影を潜めつつあります」
駅弁の地域性は、これまで考へなかった。この決定に対し
鉄道史研究者の原武史氏はX(旧ツイッター)で
「井筒屋は近江牛とか醒ヶ井の鱒とか、地元産の食材にこだわっていた。(中略)米原でしか味わえない駅弁にこだわっていた。(以下略)」
さて
衰退は1990年代から顕著になっている。コンビニエンスストアの台頭がその大きな要因とされてきたが、(中略)そこには、より複雑で構造的な問題が絡んでいる。
その構造的な問題を示す具体例がある。1991(平成3)年9月9日付『朝日新聞』夕刊には、
(中略)「コンビニ店では駅弁が姿を消したあとも、四百円台が中心の電子レンジで温められる弁当類は引き続き人気を得ており、駅弁の不振は七百円を超える値段と、「冷たいご飯」が原因らしい」
(中略)駅弁の競争力が低下するなか、JRの民営化が追い打ちをかけた。
JR各社は(中略)駅構内の商業化を進めた。
それに対し
駅弁業界は従来の経営モデルから脱却を図り始めた。その代表的な取り組みが、駅構内店舗の大胆な業態転換である。この時期の駅弁業界で特に注目されたのが、
・通勤客へのターゲット変更
・仕出しの強化
であった。例えば、大手駅弁事業者「日本食堂」(現在はJR東日本クロスステーションに吸収合併)は1994(平成6)年6月に仙台駅構内の「あ文字や」を大胆に業態転換し、弁当のほか、文房具や雑貨を取り扱う100円ショップ付き店舗に変更している。また、この時に同駅のハンバーガーショップもベーカリーストアに変更し、新たな客層の開拓を試みた。
JR九州管内では、「にっしょく九州」が(中略)主要駅の駅弁店をおにぎり専門店として再出発させる一方で、企業向けの仕出し(ケータリングサービス)にも参入し、多角化戦略で業績を回復させることに成功している。
千葉駅の「万葉軒」では、(中略)通勤客や法人向けの仕出し事業に転換を進めていた。1992年時点で既に売上の6割を仕出し事業が占めており、日本食堂のような大手企業が消えていくなか、地場の中小企業である万葉軒が今なお健在である事実は、この戦略の有効性を証明している。
しかし、この生存戦略にも条件があった。それは十分な人口と駅利用者数という「市場」の存在だ。
駅弁は 新幹線化で少し減り コンビニにより多く減り 専門店でさらに減り 昭和に合ふの懐かしき店
反歌
駅弁は人口及び乗降者多いときのみ転換可能
反歌
駅弁や冷凍みかん瓶ジュース窓の開(あ)く汽車懐かしの昭和
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一月二十八日(火)
毎日新聞のホームページに
新幹線工事で川の水が枯渇 事業主体が初認定、補償へ 北海道南西部
が載った。
水枯れが起こったのは北海道南西部の黒松内(くろまつない)町を横断する朱太(しゅぶと)川の2次支川「神社の沢川」。この川から畜産用の水を約40年間引いていた近くの農家が2023年夏ごろ、流量の急激な減少に気付いた。牛の飲み水が不足し、飼育頭数を減らさざるを得なくなるなど影響が出た。
これは大変だ。
トンネルでは24年12月時点でも毎分平均6・3立方メートルの湧水があるが、(中略)工事が完了しても川が復活する可能性は低いとして、農家との補償協議に入る。
これで北陸新幹線の、小浜経由は無くなった。(終)
兼(北陸新幹線は米原へ7)
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