二千六百三十五(朗詠のうた)歌の書籍を三冊
新春前甲辰(西洋発狂人歴2025)年
一月二十二日(水)
図書館のマイページに、予約取り消しの欄がある。試しに見ると、予約してゐた書籍が取り置き期限超過で、昨年の九月二十九日と三十日に取り消された。まったく記憶に無いが、思ひ起こすと、母が骨折したときだった。なるほどと納得した。
申し込む書(ふみ)を三(み)つほど借りずして取り置き月日超えた訳 調べて見ると母の足骨折りのため治すに通ふ
反歌
借りる為申し込みして借りざるは忙しき日の続く思ひ出
これらの本を再度予約し、昨日から読み始めた。一冊目は「和歌の詩学」で、冒頭に韻文の詩を置く。これで読みたくなくなり、数頁後には英語の詩が出てくる。更に数頁先には、万葉集を二つ引用の後、「秀歌というほどではないが」と述べる。秀書籍とは云へない本を書いた男が、こんなことを云ふとは驚く。
著者は、東海大学、東京大学、東海大学と、助教授と教授を渡り歩いた。この本は、自分の授業で学生に強制して買はせる以外は役に立たない本だった。
二冊目は「別冊太陽 和歌」で、写真が豊富だ。書に興味がある人は喜ぶだらう。万葉集の編纂者について
古くから橘諸兄、あるいは大伴家持が擬せられてきたが、契沖が家持説をとなえて以来、それが有力となっている。
さて
歌謡から創作和歌へ
の章は、それだけで内容を物語る。江戸期の契沖、真淵、宣長、良寛の記事を楽しく読んだ。近代は、子規、左千夫、節、牧水、赤彦、茂吉。
三冊目は「和歌の世界」桜楓社、昭和四十二年。十五人の論文が並ぶ。佐藤喜代治「和歌と言語」の章に、俗語と雅語が出てくる。これまで小生の歌論は、文語と口語、古語と当時語で美しさを出すことに言及してきたが、俗語と雅語は新たな分け方である。例へば擬古調と批判された時に、これば雅語だとアララギ派は反論すべきだった。
扇畑忠雄「記紀から万葉へ」の章では「大和には 郡山あれど・・・」の長歌につき
『万葉集』の作品を時代区分して、舒明以前を記紀歌謡時代(万葉時代以前)、舒明以後を万葉時代と名づけるのであるが、まさにこの作は両時代の接続点に立った歌で、これも記紀歌謡の伝統を引きながら、そこから脱化して文学に移行しようとする時代の所産である(以下略)
よろづ葉は古き歌から新しき四つに分けること多し 或いは二つ分けるありよろづ葉の前よろづ葉の後
反歌
よろづ葉の前は謡ひと言霊が後は文にて芸(わざ)を求める(終)
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