二千六百三十七(うた)本歌取り、萬葉集巻第十、第十三、第十四
新春前甲辰(西洋発狂人歴2025)年
一月二十二日(水)
巻第十は
我が背子を莫(な)越(こし)の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに

ほととぎすあの世へ向かふ我が背子を呼び返せねばせめて姿を

次は
紫草の根延(ば)ふ横野の春野には君をかけつつうぐひす鳴くも

桜の木根延(ば)ふ上野の園は春君をかけつつ花びらが散る

次は
あしひきの山道(ぢ)も知らず白橿(かし)の枝もとををに雪の降れれば

街中の脇を流れる水さへも見えぬ吹雪きは歩くに危うし

巻第十は、夏と秋に雑歌も相聞に近いものが多い。それ以外の歌も低調かな。或いは別の鑑賞点があるのか。

一月二十五日(土)
巻第十一と十二は相聞のため通過し、巻第十三へ入ると
みもろは人の守る山本(もと)辺(へ)にはあしび花咲き末(すゑ)辺(へ)には椿花咲くうらぐはし山そ泣く子守る山

みすずかる富士見の園に歌を守る 左千夫赤彦茂吉らの碑(いしぶみ)ありて今は静かに

反歌  よろづ葉のみもろの歌を引き継ぎて馬酔木は後にアララギとなる
次は
磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ

正しきの心と言葉行へば人神仏助けるぞこれが言霊大和の外も

次は
世の中を憂しと思ひて家出せし我れや何にか還りてならむ

家出した人が還らず妻迎へ子が後を継ぐ江戸へと還れ

家出とは出家。準僧侶または社僧と名乗れば、今の僧侶は住まひと職業が保証される。

一月二十六日(日)
巻第十四は東歌。
夏麻(そ)引く海上潟の沖つ洲に船は留めむさ夜更けにけり

夏麻(そ)引く海に砂あり塩水と魚と藻あり守り伝へよ
夏麻(そ)引く海上潟は上(かみ)総(つふさ)市原富津勝浦山(さん)武(む)

左注に「上総の国の歌」とある。この書籍では、海上潟を市原と推定してゐる。
葛(かづ)飾の真間の浦廻を漕ぐ船の船人騒く波立つらしも

葛飾の真間は東の歌枕昔人等が詠み繰り返す

左注に「下総の国の歌」とある。
筑波嶺の新(にひ)桑(ぐは)繭(まよ)の衣はあれど君が御(み)衣(けし)しあやに着欲しも

筑波嶺も歌枕にて祝ひ言君が御(み)衣(けし)し歌ふ式(のり)にて

書籍の解説に、新婚の儀式で唱はれた、とある。
筑波嶺に雪かも降らるいなをかも愛しき子ろが布(にの)乾さるかも

江戸よりは先の上野下野や常陸は多し東訛りが

解説に、「布(にの)」は「ぬの」の、「乾さる」は「乾せる」の東国形とある。江戸は、徳川時代に入ってから変化したのだらう。
信濃なる須我の荒野にほととぎす鳴く声聞けば時過ぎにけり

みすずかる須我に四つの地(つち)があり松本塩尻下条真田

須我の候補地に、
一、松本市笹賀。菅野中学校に歌碑、万葉学者折口信夫の学説で菅野中学校と命名
二、塩尻市宗賀。宗賀小学校に歌碑
三、下條村菅野。根之神社前に歌碑
四、真田町(現、上田市)菅平。 菅平高原自然館に歌碑
一般には、第一説と第二説が有力だが、この本は第四説としてゐる。この本は、巻末の解説を含め、客観性に欠けることが欠点だ。
伊豆の海に立つ白波のありつつも継ぎなむものを乱れしめめや

安房の海泡立つ水は白波が岩に当たりて浜は白砂

本歌の訳では、波のやうに二人の仲はずっと続くと思ってゐるのにどうしてあなたの心を乱しませうとある。相聞の部にあるからと云って、そんな訳でよいのか。
うらもなく我が行く道に青柳の萌(は)りて立てれば物思(も)ひ出(で)つも

細き路垣根に朝顔多く咲く幼き頃の家を思ひ出す
(終)

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