二千六百二十一(うた)大河ドラマ「べらぼう」
新春前甲辰(西洋発狂人歴2025)年
一月八日(水)
今年の大河ドラマは、今までとは異なる時代と登場人物だが、浮世絵の版元として成功する場面意外に興味は無い。だから、日曜の本放送から、三日も経過してから見た。
吉原の場面は見たくないので、飛ばし飛ばしで見た。だから一部の報道機関を賑はした、遊女の遺体は見なかった。 週間女性のホームページには
大河ドラマ『べらぼう』に視聴者がガッカリした“ファンタジーな時代解釈”「絶対ありえない」

が載った。
死体役に現役のセクシー女優が使われるなど早くも話題となっている。

見なかったので、先へ進み
視聴者からツッコミが殺到したのが、蔦屋重三郎が渡辺謙演じる田沼意次へ直談判をするシーンだ。(中略)意次がアドバイスを送る場面にネットからはこんな声が。
《切り捨てられそうだね 会えるわけないじゃん、絶対ありえない》
《ファンタジーの度が過ぎてる、(以下略)》
《蔦重おもしろそうと思ったのにだめだこりゃ》

小生は「会へるわけない」より、重三郎が無理やり会ひ、しかも荷物運びとして会ったのに直談判する、その適正判断力の欠如に驚いた。適正判断力欠如は原作、脚本にもいへる。こんなものを書くやうでは駄目だ。
二番目に、脚本が大袈裟過ぎる。吉原の描写や、田沼邸の取次家臣の賄賂、重三郎の軽薄さ。度が過ぎると、まったく面白くない。
『べらぼう』の演出について、ある制作会社プロデューサーは(中略)「大河ドラマは時代考証の担当者がいるのであまりめちゃくちゃな解釈をしなかったのですが、最近はちょっと目立ちますね。一昨年の『どうする家康』では“家康の正室・瀬名が考える世になれば天下泰平になる”という脚本(以下略)。
昨年の『光る君へ』は(中略)「源氏物語」は2人の愛の結晶のように描いた(以下略)」
(中略)この二つの大河ドラマよりも低い平均視聴率は『いだてん』のみである。

視聴料無駄遣ひするテレビ局存在意義はもはや皆無に


一月十日(金)
『べらぼう』は題名がよくないから、見たくない。これが年末からの感想である。「べらぼう」なんて、品が無さすぎる。インターネットで調べると、米を潰して糊を作るへら棒のことらしい。米を潰すので穀潰しの意味ださうだ。
わざわざ見たく無くなる題をつけるとは、NHKはへら棒だ。
日本のへら棒協会受信料潰す集団NHKに

へら棒と詠むところが重要だ。べらぼうではNBKになってしまふ。

一月十三日(月)
本日は、昨日本放送の第二回を見た。吉原の場面は飛ばした。平賀源内が出てくるのでこの部分は、戻して見たが、つまらなかった。
田沼意次と松平武元の微妙な関係、田安賢丸(後の松平定信)の登場は、面白かった。とは云へ、例によって田安賢丸の言動が大袈裟で、この部分はまったく面白くない。
長谷川平蔵が、吉原でカネをばらまくところも大袈裟だ。前に指摘した、脚本の適正判断力の欠如に驚く。
ドラマの原理として、観たいものと観たくないものがある。人によってそれらは異なる。べらぼうは、観たいものと観たくないものが混在するので、結局は誰もが観たく無くなる。本来は第一回で観なくなる筈だが、NHKプラスは見たくない部分を飛ばして先へ進むことができるので、何とか二回目も最後まで観た。途中はかなり飛ばしたが。
観る部分半分以下の番組も 今は飛ばして観る事が可能となりて 今日まで続く

反歌  観る部分半分以下の番組は観ない世帯に分類される

兼「マスコミ、その他独占企業の横暴を許すな175」へ 「マスコミ、その他独占企業の横暴を許すな177」へ

メニューへ戻る うた(一千百六十の二)へ うた(一千百六十二)へ