二千五百九十二(うた)今枝由郎「スッタニパータ ブッダの言葉」批判
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十二月十七日(火)
牧水の歌を本歌取りして以来、それに熱中し今も継続中だ。良寛和尚も原始仏法も、一時休止状態になった。そのやうな中で、今枝由郎「スッタニパータ ブッダの言葉」を特集したのは、予約は他の本といっしょなのに、この本だけ貸出中で今頃来た。それだけの理由だった。
いづれ良寛和尚や原始仏法へ戻るが、牧水の次は、牧水と仲のよかった啄木で本歌取り、その次は左千夫、赤彦、茂吉で本歌取りをしたい。だからかなり先になるはずだった。
スッタニパータを読み、気付いたことは、バラモンと敵対せず、理想のバラモンを目指す仏法は、釈尊時代のものであらう。在家は正しく生きることで、天界へ行く。これも釈尊時代のものであらう。
パーリ語のスッタニパータ 南伝の大蔵経は経集に スッタは経に ニパータは集
反歌
マダガ語の語形を残す四章と五章に含むブッダの言葉
反歌
宝(ほう)経と吉祥経と慈経読むスッタニパータのパリッタにして
反歌
ダンマパダこれも最古の経典のもう一つにて二つ尊し
第二「小さな章」の第十四段落「信者ダンミカ」の399偈で
愚か者は、酔いのために悪事を働き、他人をして悪事を働かせる。この禍の起こる源を避けよ。愚か者から愛好され、人を酔い狂わせる酒を避けよ。
この註釈に
厳格な禁酒ではない。あくまで酔狂させるおそれがあるので、酒を慎むということである。
酔狂してはいけないが、少量ならよいとする考へに賛成。尤も398偈の
(前略)不飲酒の教えを喜ぶ在家信者は、他人に飲ませてもならず、他人が飲むのを容認してもならない。
との兼ね合ひをどうするか。
十二月十八日(水)
ブッダの教へは、バラモン教の前提がある。バラモン教の間違った部分を指摘するが、それ以外はバラモン教を前提にする。それをまづ感じた。
第五章第三段落の
両極端を知った上で、中間にも執着しない人、私は、彼を『偉大なる人』と呼ぶ。
仏法は中道だと、よく云ふ。しかし中間にも執着してはいけない。
第五章第五段落の
識者は、(中略)情欲を離れ、苦悩なく、願望もなく、生老を超えた人である、と私は言う。
の注釈に
こうした文言からすると、当時にあってはバラモン教徒であれ、仏教徒であれ、修行が完成に達した人たちは、ほぼ共通した境地にあると見なされていたことが窺える。(中略)バラモン教徒との対話ではそうした用語を用いざるを得なかった。しかしブツダは、それらの用語を換骨奪胎し、(中略)バラモン教から独立した、仏教の確立に到ることになった。
それは後世のことであり、ブッダの時代はバラモン教を前提にしたのではないのか。文面によらず、逆の解説をすることに不信感を持った。
第七段落の
(ウパーシーヴァの質問)
「あまねく見通されるお方よ、もし彼が、輪廻に赴くことなく長いあいだこの境地に安住したら彼は冷たくなって、感覚作用はなくなってしまうのでしょうか」
(ブッダの答え)
「(前略)聖者は個人存在から解き放たれたのであるから、存在するとは見なされない」
(中略)
(ブッダの答え)
「ウパーシーヴァよ、亡くなった人のことを語る術(すべ)はない。すべての現象は消滅してしまえば、それを語る術も消滅する」
ここまで100%賛成である。それなのに註釈は
サムサーラ(輪廻転生)は仏教の中心的教義の一つで(中略)しかしそれは、当時の全てのインド人が信じていたことでブッダはそれを前提に話さざるを得なかったに過ぎない。(中略)ブッダが問題としたのは、過去でも未来でもなく、この世、今をいかに生きるかだけであった。
間違った部分を赤色にした。経典は、輪廻を解脱した聖者について論じたのであって、六道を輪廻する者たちについてではない。こんな出鱈目なことを書くので、題を『今枝由郎「スッタニパータ ブッダの言葉」』から、『今枝由郎「スッタニパータ ブッダの言葉」批判』に変更した。
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チベット研究のためフランスへ留学し、パリ第七大学で文学博士号修得。1974年から国立科学研究センターに勤務。1981年~1990年に、ブータン国立図書館顧問としてブータンに赴任し、(中略)1995年には、カリフォルニア大学バークレー校客員教授を務めた。現在は京都大学こころの未来研究センターのチベット歴史・文献学特任教授を務めている。
フランス国籍を取得しており、元夫人(中略)もフランス人チベット学者。現在は、日本人女性と再婚している。ダライ・ラマ14世の著述を翻訳紹介をするなど、チベット亡命政府(中略)を強く支持し、中国のチベット政策を徹底して批判しているため、現在のチベットには入国しない姿勢をとっている。
ポルポトと同じで、フランスに留学するとろくなことはない。フランス語やフランスの専門家がフランスへ留学するのはよいことだ。チベットの専門家がフランスへ留学してはいけなかった。
チベット人の幸せのためには、ダライラマと中国政府が融和する方法を見つけることだ。第一次ベトナム戦争のフランスは、自身が戦争を始めた。第二次ベトナム戦争はアメリカが対立を煽り途中から自身も戦争に加はった。。それと同じことをしてはいけない。(終)
「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百二十四)
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