二千五百八十一(朗詠のうた)蒸気機関車再生の動画を三つ
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十二月八日(日)
鉄工所の元経営者だらうか、鉄工所でD51を復元する人を写した動画を観た。続き物の七回目で、煙室の中はどうなってゐるかだった。煙を煙突の先端に送るための蒸気管がある。なるほど煙突から蒸気が出るのは、さう云ふ訳なのかと納得した。
水上へ旅の後には 煙吐く黒き鋼(はがね)の曳く車 親しみを持ち幾つかを観る

反歌  水上の旅は新たな心呼ぶ牧水そして煙の車

十二月九日(月)
本日はまづ、東海汽缶といふ会社が、島田市に蒸気機関車のボイラーを修理する工場を作ったニュースの動画を観た。大井川鉄道の蒸気機関車のボイラーは従来、清水にある東海汽缶の工場か、同社の技術者が大井鉄道まで出張して修理した。そのため費用や手間が掛かったが、これからは全国に数へるほどしかないボイラーの修理を島田で出来るやうになり、全国から受注して島田を一大拠点にするさうだ。
次に、真岡鉄道の蒸気機関車を再生する動画を観た。公園に展示してあった機関車を、トラックで真岡鉄道迄運んだ。ここでJRの技術者なども交へて分解し、JR東の大宮工場で再生し、電気機関車にけん引されて真岡鉄道へ戻った。
くろがねの煙を吐きて曳く車 老いるのみには非ずして 新たに作る力さへ持つ

反歌  水上へ行きて新たな心持ちくろがね煙楽し懐かし
三番目は、昨日観たD51を個人で復活させる動画七本連作のうちの五つを観た。昨日一つだから、あと一つ残った。本日の内容は
・滋賀県の多賀SLパークにあったD51を、市から譲り受け、豊田市へ移動。七十七歳。これまで古い自動車の再生は行った。
・豊生ブレーキの支援で、屋根を付けた作業場で開始。三河線跡で走らせる期待も(市が動けば)。
・丁寧に溶接などをやったか、後から見れば分かる。見えないところもきれいに仕上げる。亀裂は、止めないと進む。
・昭和19年製。脱線を何回か起こし、完全修復ではなく、簡易修復した跡が幾つもある。何しろ戦時中のことだった。
・16Kgの試験に合格しないと走れない。走らすのではなく、動かす(低圧で)。圧縮空気で、少し動くところまで行った。
以上の内容だった。多賀SLパークを調べるとWikipediaに
多賀ハイウェイパークレストランの宿泊施設として1976年(昭和51年)11月3日に開業。近江鉄道多賀線多賀大社前駅に近い場所に(中略)D51形蒸気機関車(D51 1149)とB寝台客車3両(スハネ16 2082・2606・2619)を設置し、客車を宿泊施設として使用した。
一両は、車内の寝台を全部撤去し、畳敷きの和室に改造されていた。車両の搬入は(中略)彦根駅から近江鉄道の電気機関車が牽引して多賀駅(現・多賀大社前駅)まで輸送された。(以下略)
多賀大社は、今年九月に旅行した。
1980年代末に経営不振に伴い閉鎖された。(中略)多賀町が旧国鉄から借り受けていた機関車(中略)は2011年にJR西日本から無償で譲り受けたが、腐食が進んでいたため町は引き取り手を探していた。
(中略)2022年6月、愛知県豊田市の譲渡先(個人)に無償譲渡する関連議案が多賀町議会に提出され(中略)搬出された。
報道によると譲渡先の男性は、古い自動車をスクラップ同然から復元して保存する活動を続けて「私設博物館」を設けるに至り、「次は蒸気機関車だな」という意向で本機を取得し、自ら移設に向けた分解作業もおこなった。

ささなみや多賀に朽ちるのくろがねを 元の姿で動かすと熱き心は皆を動かす

反歌  煙吐く曳く車には走るもの園に見るもの動かすは新た
東京大森の公園に、動輪が圧縮空気で一日二回五分間動くC5766がある。汽笛もなるが低圧なので、ボーボーと低音で鳴る。五十年前に搬送され、動くやうになったのは1990年頃か。そのころ一回見に行ったことがある。動くのは動輪だけなので、車体が動くのは初だ。(終)

(路面電車、客車、その周辺、四十五)へ  兼(路面電車、客車、その周辺、四十七)へ

メニューへ戻る うた(一千百二十)へ うた(一千百二十二)へ