二千五百六十八(うた)いろは亭若手の会(三門綾、春風亭一猿)
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十一月二十七日(水)
本日はいろは亭で若手の会を鑑賞した。出演は三門綾(りょう)、春風亭一猿。まづ対談で、三門綾は五年目、春風亭一猿は十年目。落語はあちこちの師匠に習ひに行くが、浪曲は一人の師匠に習ふ。
落語は教はったものを録音し家で練習し、次に習った師匠からよしと云はれるか、再度練習してくる。練習は歩きながらが多い。
浪曲は仕事を受けてから曲師を探すが、見つからないときは師匠にお願ひする。曲師を含め一秒でも先に名を付けてもらった方が先輩で、今日の曲師とは同じ日付で数分曲師が早かったので、本当は姉さんと呼ばなくてはいけないが、知り合ひなので、さん付けにしてもらってゐる。そんな内容だった。
三門綾の演目は、昼間から任侠ものですが、で初めてばくち打ちと啖呵を切り大喧嘩をするところは嫌だなと思ったが、最後に逆転する。やくざと思った主人公は屋根屋の職人で、面白い内容だった。
春風亭一猿は、干物箱。一時間以内に銭湯から戻るやう云はれた勘当すれすれの若旦那が、声色の得意な人を代役に吉原へ行く話だ。これも吉原が出てくる話は嫌だなと思ったが、さうではなく面白かった。
小生はお二人に「まってました」と声を掛け、登壇ののちにお礼を云はれたので、掛けたほうも嬉しかった。
掛け声で芸能人と客席が共に盛り上がり笑顔のいろは

小生は「待ってました」しか掛けないが、三門綾さんから、演目を発表した時に「たっぷり」、曲が終ったときに「名調子」と解説があった。演目を云ったあと、こっちをちらっと見たので、「たっぷり」も掛けた。
春風亭一猿さんからは、師匠の会に開口一番で出演し、開口一番は名前を載せないのに「待ってました」と声が掛かり、誰が出演するか分からないのに待つのは変だ、と笑はせた。
最初の対談のときに、一猿さんが綾さんに一門で一人だけなので将来は惣領と話された。帰宅後に調べると、綾さんの師匠は三門柳さん(女流)。柳さんの師匠は、唄入り観音経で有名な三門博さん(故人)。
三門博を調べると、Wikipediaによると
1907年(明治40年)5月5日(中略)松本市生まれ。幼い頃に母と死別、(中略)丸子町出身の父親は重太郎を捨てて蒸発し(中略)10歳で伊那の製糸工場に勤め、工場主に見込まれて養子に入る。(中略)11歳で小学校に入学、補習科に2年通って卒業した。(中略)1927年から名古屋へ行き、初代浪花亭綾勝に世話になり二代目「浪花亭綾勝」の名で約10年間をこの地で過ごした。(中略)後に再び上京し、(中略)この頃「御門博」と改名。戦時中は(中略)「御門」という芸名が相応しくないと(中略)「三門博」と改名。

一猿さんは大阪出身、綾さん和歌山出身。関西出身の二人が東京の芸能人になるのは珍しいのではないだらうか。
関西は関西弁が特長に 関西界の芸人にならず上京 吉本や松竹芸能入ることなし

反歌  芸人は関東中部関西に分かれ活躍理想の姿
観客は五名。若手を元気づける為に、もう少し多いほうがよいかな。水曜昼席は十二時開演。予約と友の会会員は千円、一般千五百円。敷居は低い。(終)

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