二千五百三十五(うた)北嶋泰観「ダンマパダ」その二
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十月三十日(水)
ダンマパダ10は
[悟りの力で]汚れを吐き出して、よく戒めを身につけ、六根を整え、真実を語る人、
その人こそ、袈裟衣を着るに値する。
因縁物語は、デーヴァダッタが前世で、たくさんの象を騙して殺した話なので省略し、偈自体の前に付けた[悟りの力で]は、これで正しいのか。悟りを得ることが目的なのに、悟りの力で修業するのは、変ではないか。悟った人が、修行を止めてよい訳ではないが、ここでは悟りを目指す比丘についてだ。
ダンマパダ13は
粗末な屋根ふきをした家に雨が漏るように、修養のない心に、貪欲(二文字で、むさぼり)が侵入する。
ダンマパダ14は
丁寧によく屋根ふきをした家に雨が漏らないように、修養された心に、貪欲が侵入しない。
13と14の因縁物語は、仏陀が故郷を訪問し
王宮に行かれ、そこでも説法され、父上スッドーダナ王は、悟りの第二段階である一来果(パーリ語略)を、義母(中略)は、その第一段階である預流果(パーリ語略)を得た。
説法を聴くだけで一来果と預流果は、それだけ説法が優れてゐた。ダンマパダは教義が複雑化する前なので、前世の因縁でなっただとか、仏陀の両親なのでなったするのは駄目で、説法によると考へるべきだ。
三日目に、仏陀の従兄弟にあたるナンダ王子(Nanda)結婚式が行われた。(中略)ナンダ王子は(中略)仏陀から出家を勧められた。(中略)思わず「はい。私は比丘になりたいです」と逆のことを口走り(中略)父上スッドーダナ王子は(中略)不満を持ち、以後、保護者の許可を得てから出家させるように仏陀に申し入れた。仏陀は、この申し入れを聞き届けた。
ここは話が変だ。知恵を備へた仏陀が、結婚式で新郎に出家を勧める訳がない。更に、一来果になった王様が不満を持つ訳もない。
このあとナンダ王子が花嫁を忘れられず、仏陀は、もっと修行すれば三十三天界の美しい女神たちを得ることができると云った話に発展する。実際は他の比丘から、女神を得る為に修行をしてゐると非難を受け、心を入れ替へて阿羅漢になる。
この話も変だ。仏陀の出身国が滅びた後に、その前提で(王子が花嫁を捨てて出家しても、国が滅びるのだから問題なかった)作られた話ではないか。
ダンマパダその因縁の物語 一部に仏陀の直説と異なる物が後から入る
反歌
ダンマパダ長い間に作られた話があれば直説もある
小生は四向四果を、後世に入れられた話だと思ふ。(1)悟るか(2)悟らないかの二つ、或いは(1)悟るか(2)悟ることが確定の道に入る(3)悟らない、が初期仏法ではないか。
十月三十一日(木)
ダンマパダ29の
足の早い馬が遅い馬を後に走り去るように(中略)ひとり覚めた賢き人は、愚かな人をすてて、走り行く。
因縁物語(要旨)は
一人の比丘は、早朝から、最初ゆっくり歩きながらの瞑想を、次に静止しながらの瞑想を、夜は横になりながら瞑想に集中していた。その結果、この比丘は短い時間で悟りを得たのである。
もう一人の比丘は、朝起きるとたき火をおこして暖をとったり、時々新入りの沙弥たちと雑談したりして瞑想の修行をしていた。
雨期も終はり、仏陀は悟りを得た比丘をほめた。もう一人の比丘が「彼は毎日横になっているか、又は寝ているかでした」と言った。仏陀は「形だけ不法逸(3文字で、はげみ)でも、中身が法逸(2文字で、なおざり)では修行にならない」と、駿馬と駄馬の例をとりながら、さとされたのである。
ここで注目するのは、ゆっくり歩きながらの瞑想、静止しながらの瞑想、横になりながらの瞑想である。達磨大師の系統は、戒定慧のうち定に偏ることが欠点だが、定のうちでも坐禅のみに偏る。南伝と達磨大師から、初期仏法を探るとこの辺りが落ち着く所ではないだらうか。
瞑想は座るか歩くか横になる 我慢比べに非ざれば体に馴染むやり方で 悟りを目指し積み重ねにて
反歌
菩提達磨坐禅に偏る欠点がだが南伝も似た傾向に
小生は肩が凝るので、坐禅が苦手だ。だから歩きながら、電車に乗りながら、椅子に座りながら止観をする。
ダンマパダ30の
マガ青年は、不法逸(3文字で、はげみ)によって、神の上位についた。賢者によって、不法逸は、讃えられ(以下略)
因縁物語は
マガ青年は、七つの信条をもって(中略)死後、神々の中で最もすぐれた神サッカとして生まれ変わったのである。
七つの信条とは、両親を養ふ、陰口を言わないこと、など仏法とは無関係に普通の道徳である。ここで注目するのは、初期仏法は、バラモン教への批判だった。在家が天界へ生まれるとするのは、初期仏法であらう。
十一月一日(金)
このあと異変が起きる。ダンマパダの偈が複雑になり、因縁物語も複雑になる。此の辺りから後世の作か、との思ひがある。或いは、読み続けたので慣れたのと頭が疲れたか。
暫く間を空けてから、読み続けたい。
名作も同じ調べやあらすじが続くと飽きることがある ダンマパダでも類似する偈や因縁の物語 暫く空けて再開しよう
反歌
ダンマパダ仏陀の言葉含む経次の予定はスッタニパータ(終)
追記十一月二日(土)
ダンマパダ18の
善いことをした人は、この世でよろこび、あの世でよろこび、二つの世でよろこぶ。(以下略)
因縁物語では、アナータピンディカの家では、長女と次女が悟りの第一段階の預流果に、三女が第二段階の一来果になった。三女が重病になり、父親がなぐさめると「どうかしたのかい」と年上のやうな口をきいた。心穏やかに引き取ったのち仏陀に尋ねると、父親は第一段階、三女は第二段階だった。
この話は、後世の作だらう。悟りの段階と、人間の年上年下は無関係である。後に四向四果について、預流果に到ったら多くても七生を人と天界を行き来して悟る、となったが、これは長年の智慧であらう。初期仏法には無かった四向四果を、円満に流通させるための智慧である。
「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百十四)
兼「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百十六)
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