二百五十一、松井保彦氏批判(賞賛から批判へ)
4月19日に題を変更

平成二十四年
四月一日(日)「全国一般」
組合の本棚に松井保彦氏「合同労組運動の検証」といふ書籍があつた。さつそく借りて読んだ。松井氏には会つたことがないが、これまであまりよい印象は持つてゐない。
私の所属する労組は総評全国一般東京地本から生まれた。一方で松井氏の東京一般は全国一般に直接加盟し東京地本には所属しなかつた。そして総評解体のときは全国一般を連合に加盟させる中心人物になつた。総評を解体すれば今日の日本のような醜い社会になることは予想できたはずだ。
だから松井氏には悪い印象しか持たないが、書籍を読んでみるとまともな事が書いてある。

四月二日(月)「東京地本」
東京地本は共産党の強いところだつた。南部支部と北部地域支部の二つは社会党左派だつたが東京地本に残留した。それ以外はすべて共産党だつた。全国一般本部は社会党優位、東京地本は共産党優位といふことでバランスが取れたゐたのが東京地本に残れた理由だらう。
総評が解体するとバランスが崩れて、東京地本の大部分は全労連に行き、全国一般本部は連合に行つた。東京地本の2支部は全労協に行つた。なぜ中小企業労組が連合に行くのか不思議に思ふ人もゐよう。全国一般は地区労の世話になり、地区労は自治労など官公労が資金を出してくれた。自治労などが連合に行く以上、いつしよに行く心情は判る。

四月六日(金)「総評結成前後」
「合同労組運動の検証」には総評結成前後の話題として次のことが書かれてゐる(要旨、以下同じ)。
・昭和25年に総評が結成。
・総評結成をめぐつて総同盟内部に左右対立を生み、左派は総評に結集。全木産(全国木材産業労働組合同盟)も総評に参加し、中小労働運動の中心的勢力になつた。
・総評内部では、全木産と、中小労組を多く抱へた全国金属、化学同盟との間で論争が起きた。それは中小の労働組合を産業別に整理して、それぞれの単産が指導する産業別整理論」と、各地域に産業を超へた合同労組をつくり全国に結集する「合同労組論」の対立であつた。
・合同労組論は「(1)中小企業労働者の組織化に全国的に対処、(2)各地域の実情を考慮した地域合同労組を結成し、官公労、民間大単産の援助を受ける、(3)個人加盟を原則」。
・昭和30年に合同労組として全国一般が結成。


四月七日(土)「合同労組論が総評解体の原因では」
高野、清水は国民左派、太田、岩井はマルクスレーニン主義左派と定義することができる。国民左派ならば単産も国民のものとするために中小を単産に整理するし、マルクスレーニン主義左派なら階級闘争のため速やかに組織化できる合同労組を採るべきだ。
しかし実際は支持組織の都合でそうなつたと「合同労組運動の検証」はいふ。高野派は全国金属や化学同盟など中小を抱える単産が中心であつた。
合同労組が中小の多数を結集できれば合同労組論でもよかつた。しかし全国一般は中小のごく一部しか組織化できなかつた。総評が衰退したのは中小を組織化できなかつたためと言へる。もちろん大手民間が総評を脱退し、残つた大手も昭和六十年ころから同盟化したのが直接の原因ではある。しかし大手単産に中小を加入させればそのようにはならなかつた。全国一般といふ独立した単産に面倒を見させたことに原因があつた。

四月八日(日)「労働組合法」
労働組合法には企業を超へた規定も存在する。例へば
第十八条  一の地域において従業する同種の労働者の大部分が一の労働協約の適用を受けるに至つたときは、当該労働協約の当事者の双方又は一方の申立てに基づき、労働委員会の決議により、厚生労働大臣又は都道府県知事は、当該地域において従業する他の同種の労働者及びその使用者も当該労働協約(第二項の規定により修正があつたものを含む。)の適用を受けるべきことの決定をすることができる。
だから私は、労働組合法は職能別の規定をしたのに、日本の労働組合の歴史が浅いために企業別労働組合になつてしまつたと考へてゐた。しかし「合同労組運動の検証」は昭和二五年頃に全木産のオルグに尽力し後に全国一般委員長になつた倉持米一氏の発言として、労働組合法は企業別組合を対象にした内容だから、合同労働組合の団結権、団体交渉権、罷業権を確立して行くことが必要といふ内容を紹介してゐる。
これについて中労委会長の菅野和夫氏はまえがきで、
・わが国の労働組合法は、欧米の組合運動と組合法制の影響を強く受けて制定されたものであって、企業外に存する職業別、産業別の組合や一般労組をも当然に視野に入れている。このことは、労使関係や労働法の学者であれば自明の前提なので(以下略)
・しかし、それは、今日の時点から見ればということであって、当時の激しい労使対立のなかでは厳しい論争点だったはずであり、関係者のご苦労が偲ばれる。

と当時の労働運動を評価されてゐる。

四月九日(月)「中小企業対策オルグ」
総評は昭和31年に中小企業対策オルグを全国に90名配置した。オルグは未組織労働者の組織化を目的に設置されたが、手足の弱い県評、地区労の仕事もやるようになつた。そして地方オルグと改称された。
中小企業対策オルグを地方オルグと改称したことが、総評弱体化の第二の原因とも考へられる。

四月十三日(金)「合同労組論と産別整理論」
この本で判りにくいのは、高野実は合同労組論だとあちこちで書く。一方で高野は産別整理論だといふから混乱する。まづこの本の記述を見てみよう(要旨)。
・組織化方針は一つ目が「中小企業の労働者を地区単位で合同労組に組織」
・二つ目は「それを県段階で協議体にまとめて全国的につなげる」
・三つ目は「合同労組の整理にあたっては産別整理の原則に立つ」
・とくに三つ目の方針は高野の出身母体の全国金属ないしは、当時の化学同盟との妥協
・太田・岩井ラインと高野系との対立のなかで、妥協の産物として生まれた

二つの妥協で生まれたといふがそれは違ふと思ふ。単組レベルまたは組織化時点での合同労組論と、単産レベルまたは大きくなつた時点での産別整理だから矛盾はしない。産別整理に反対するのは、全国一般幹部が既得権を持つようになるからではないのか。この本は中小労働者の立場に立つから好意的に紹介しようとしてきたが、やはり限界がある。
合同労組論か産別製理論かでいふと、太田岩井ラインの社会主義を目指す路線は一回は試す価値がある。しかし成功しないときは産別整理論に戻すべきだつた。
なほ今では産別整理をすることはもはやできない。単産が大企業労組中心になつてしまつたからである。それを防ぐためにすべきだつた。

四月十五日(日)「昭和三十年代の中小労働運動」
昭和三十年代の中小企業と労働運動は次のことが特徴だといふ(要旨)。
・高成長というのは、鉄鋼とか石油化学は「装置型」だが、電機、自動車、機械は「組み立て産業」。下請中小企業が対応して良い部品を作らないといけない。中小企業の小零細だったところが中規模化した。
・中小労働運動のスタート時期は独立中小型と下請型と地場型のうち独立中小型が多かつた。ところが1960(昭和35)年以降の高成長過程で下請けの比率が高くなつた。 ・1959(昭和34)年に一番賃金格差が広がるが、1960年代後半に賃金格差が一番縮小する。1960年代の高度成長期になってから「大手の獲得した水準に中小も到達しようじゃないか」という運動が起きる。年率20何%とか、10何%の高成長をするから労働力が足りなくなる。設備投資が行われ付加価値が上昇し、大手と中小企業との格差縮小をもたらした。

大手と中小を連動させる労働運動がなければ中小の賃金は上がらなかつた。しかし高度経済成長がなければやはり中小の賃金上昇には限度がある。一方で人手不足なので賃金を上げないと応募者がない。労働運動には労働法規で守られるはずの権利が中小では守られないためこれを守るものと、賃上げなど新しい要求を獲得するものがある。中小の労働運動は前者では効果を上げても、後者では雇用の流動を止めるだけに終はつた。
企業を超へる労働運動をしないと、企業収益向上に巻き込まれてしまふ。昭和六十年頃に電機労連が派遣法制定のため社会党に圧力をかけたことでも明らかなように、或いは数年前に電機連合の幹部が派遣を使はないと国内の電機産業はやつてゐけないと発言したように、他の労働者の犠牲の上に自分たちだけいい思ひをしようといふ連中が出てくる。次に企業を超へた労働運動を見て行かう。

四月十六日(月)「合同労組と企業別中小労連」
個人で地区別に加盟するはずの合同労組が実際はどうなつたかを見よう(要旨)。
・実際には合同労組はほとんどできない。中小労連である。方針上はそういっても、実際は企業別組合をつくることになってしまう。
・どうやったらこのような事態を解決できるだろうか、というのが大問題だった。広島でやっていた一般方式も、その模索の一つ。権限の中央集中化をして、中小労連からの脱皮を考え、それが統一労組運動になる。

合同労組が中小労連になつてしまふ。だから更に統一労組を作るが少数に留まる。この本はその責任を共産党の4・8声明に帰したり、南部支部渡辺勉委員長は日和見だと嘲笑してゐるがそれは違ふ。せつかくこの本を誉めようと思つて始めたのに4月13日に続き2回目の失望である。今日でこの本の1/5まで読み終つたが、この先最後まで読み進むことが心配になつた。中労委の委員だつたことを利用して中労委菅野会長に「はしがき」を依頼したり、南部支部の元委員長渡辺氏の発言を引用してゐるが、とんでも本かも知れない。

四月十七日(火)「転職権」
私は二五年くらい前の富士通労組時代に終身雇用は労働者の人質だと主張したことがある。転職できないし企業が倒産すれば労働者が不利益を被るからだ。しかし富士通労組の連中は誰も「転職権」を理解できなかつた。この本を見てみよう。
・中小企業労働者には特殊な条件がある。労働者仲間や機械への愛着などはあっても企業への強烈な定着性はないということ。32~33歳で4~5ヵ所職場を変えている人が多い。
・中小企業労働者の問題は、なんといっても流動性があるというか、不安定といえる。従業員30~50人規模での労働者の流動がとくに激しいです。この場合、組合ができると、定着率がきわだってよくなる。”10円向こうが高いから移る”という感覚が薄れていく。組合ができたことで労働者が相互に交流し、その話し合いのなかから自信のようなものをつくりだしているんですね。

当時は人手不足で転職は容易だつた。失業者や非正規雇用の多い今は事情がまつたく異なる。失業者や非正規雇用に今、東京一般は取り組んでゐるのか。具体的には大企業がほとんどの連合を内から改革することだ。だいたい「組合ができたことで」とは企業内組合ではないか。本当に統一労組を目指すなら「組合に加入したことで」といふはずだ。これでこの本の本音と建前が明らかになる。
1番目と2番目の話の間に、次の話も書かれてゐる。
・敗戦直後に、戦後日本の企業別労働組合を組織したのは年齢31~40歳、勤続年数5~10年、高小卒の中堅の職員および役付工員。これに対して1960年代初めは戦後民主主義教育を受けて育った20歳代後半から30歳代前半の青年たちであり、敗戦直後に組合リーダーだった戦前の軍国主義教育を受けて育った世代とは違う戦後民主主義の第一期生たちだった。1960年12月組織化に乗り出した「五人の侍」について、簡単にその経歴を見てみよう。

五人の侍とは呆れるが、この後は自分たちの自慢話が続く。

四月十八日(水)「戦後も偏向してゐる」
この本は「戦後民主主義」といふが、当時は米ソ対立の時代で、朝鮮戦争やベトナム戦争の最中だつた。だから米側に偏向したものである。野田が「ネバー、ネバー、ネバー、ネバー、ギブアツプ」とみにくい発言をしたのも、米英は正しいと思ひ込んだためだ。イギリスの広大な植民地支配の歴史を忘れてしまつた。中国に厖大な人数のアヘン中毒患者を作つた歴史を忘れてしまつた。
戦前は富国強兵の偏向だつたが、戦後は拝米拝欧の偏向である。安保条約反対闘争や基地反対闘争の根底に戦後の偏向への反発があることに気がつかなくてはいけない。世代を引き継ぐことで偏向を中和できる。ところがこの本は、敗戦直後に組合リーダーだつた人達と自分たちは違ふと言ひ切つた。ここに世代の断絶があり、総評の労働運動が消滅した原因がある。


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