二千四百八十一(うた)十回目の上野動物園は日暮里から
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
九月十六日(月)
本日は仕事が無いので朝に家を出発し、日暮里で降りて省線(当時)を京成の地下道へ退避のため連絡する線跡地を見た。長いこと、京成の駅で常磐線から繋がると思って来た。その理由は、かつてホームの東に本線と平行に引き込み線があった。本線が上野方向へ上り勾配なのに対し、水平だった。
引き込み線は昭和四十年頃に撤去されたが、戦争中はこの線を京成が使ひ、ホームは省線がトンネルに退避するのに使ふと思ってゐた。しかし二ヶ月くらい前だらうか、京浜東北線の西側に京成のトンネルと接続する上り勾配の線があったと云ふ記事を読んだ。それを確かめに行った。空き地の先は壁があり、正直ここが線路跡なのかと疑問だった。壁の反対側は、言問通り側の民家の路地を調べたが、合流とは反対側なので何の手掛かりも無かった。
言問通りの上野桜木トロリーバス停跡は、旧寛永寺坂駅舎が無くなり、コンビニになった。コンビニで弁当とともに飲み物代はりに100円のパック酒を買った。これは春の花見でも買ったが、アルコール度が高く辛口で美味い。朝からなので、中旅行で昼間の飲酒可とした。
次に寛永寺を見た。今まで寛永寺を見たことがない。トロリーバス(とその後の都バス)で近くを通る時は降りないし、上野駅で降りたときは、寛永寺迄来ない。上野から根津方面へ行く時は、もっと西側を歩く。寛永寺は、今でもそれなりに大きな寺だ。黄檗宗の僧が寛永寺に貢献し、碑があった。

 
黄檗僧の石碑と像(ダブルクリックで拡大)       説明板

墓地の中に徳川家墓地の一つの赤門が残るので、それを見た。古い建物が点在するのは、増上寺に似る。徳川の没落とともに、特に徳川家墓地の没落とともに、飛び地になった。
黄檗の僧も顕彰石碑あり尊き行為宗派を超えて

上野駅公園口で、みどりの窓口の場所を訊いた。中央改札にしか無いことは既に調べた。坂を下まで降りて左折すれば行けることは分かってゐる。もっと近道があるのでは、と訊いた。説明の後、坂は下まで降りるのか訊くと、さうだと云ふ。云はれた道を少し行くと、線路を渡る陸橋を見つけた。小生が知らないのは、昔は無かった。これは坂を下まで降りてはゐない。上野駅は嘘を教へてはいけない。
橋(パンダ橋と云ふらしい)を渡り、改札でみどりの窓口を訊くと、エレベータで舌に降りるのだと云ふ。云はれたとほり下に降りたが、そこから先が分からない。かつての、東北上信越北陸方面の列車が発着したころと異なり、一階の出入り口が無くなったことを知った。一階へ降りた後、再び二階へ上がり、やっとみどりの窓口へたどり着いた。パンダ橋の開札も、説明が不十分だ。エレベータで降りた後を云はないからだ。
次の一泊旅行の切符を購入の後、上野動物園へ再びぐるっと回った。今日は仕事帰りではなく、朝から出掛けたので中旅行だ。そこで、先程買った日本酒一合を飲み弁当を食べた。これが疲れの原因になった。体が重くなったが、東園から西園へ行く途中に、中国へ戻るパンダの年表が掲示され、興味深く読んだ。
子を幾度産み育てるの親パンダ 健康不安現れて帰国報道されたのち パンダの森は二時間待ちに

反歌  リーリーとシンシンともに中国へ健康不安乗り越える為
パンダ入口は三ヶ所が二ヶ所に減り、一方は一時間、もう一方は二時間待ちだ。小生は何回か観たので、まだ観てゐない人たちに譲り、子供動物園を観て回った。不忍池を橋で渡らうとしたら、行き止まりと書いてある。さう云ふことは手前に書くべきだ。橋のたもとに書いても、困惑するばかりだ。
一旦、弁天門から出た。弁天堂からボート乗り場前を過ぎて、ベンチで休んだ。酒を一合飲んだだけなのに体が重くなった。池之端門から再び入り、西園を少し観たあと弁天門から出て、京成乗り場から地下鉄方面へ地下道を通って、中央改札から入った。地下鉄方面への地下道は、何年も前に歩いたことはあるが、今年になって初めてだ。
今週は敬老週間で、六十五歳以上ともう一人は入場無料だ。だから年間パスポートではなく、マイナカードを見せて入場した。園内は、六十五歳以上が多い印象は持たなかった。
お年寄り敬ふ週に 動物園無料で入り我が歳が リーリー並みに高まるを知る

反歌  暑き日の次に涼しき日が来ると体が重くリーリー並みに
昨日は、ボランティアによる説明が三つあったが、本日は無い。しかし昨日は暑いのと、母の昼食があるため、本日にした。暑くなくてよかった。(終)

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