二千四百七十五(うた)法華讃を続き物として読む
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
九月十一日(水)
これまで法華讃は、一つ一つの詩を独立したものとして扱った。それは一つでも適ふならば、仏に至るとする最後の詩に影響した(このことについては後述する)。だから飯田利行「定本 良寛詩集譯」(法華讃)でも、幾つかの詩を連続ではなく飛び飛びに扱った。
そして序品が終了し、方便品を幾つか載せようとして、やはり飯田さんの定本のほうがいい、となったのだった。せっかく考へたのでやはり載せると、「度生すでに了ず」の詩は
衆生済度が既に完了したのは、生まれる前だ
釈尊が出てくる謂はれはなかった
舎利弗の機を見る働き(釈尊に説法するやうお願いした事か)は
五千人が退出して、負けてしまった。
宝剣(仏)は手に在る

その次の詩は
仏を持つことは思慮の及ぶ所ではない
煩悩を滅しても奥深いことを誇ることができない
本当の意味を問ふ人がゐたら
世のすべては仏である。

幾つか飛ばし「諸法は従来」の詩は
世の中は従来、煩悩を滅してゐる
暇な人は暇、忙しい人は忙しい
ここに至って自覚すれば
努力して、髪を白くする必要はない

本日は、先程述べたやうに、特集を書く為に、通しで最初から最後まで何回か読んだ。まづ、一つの詩でも理解すると仏の境地に達するのだらうか、と疑問を持った。個々の詩では、それほどの内容では無いものもある。最後の詩をよく読むと「声を立てて読み、適へば仏になる」であって、一つの詩でも、では無かった。或いはその前の「句々に深意あり」と混同したか。
結論としては、良寛和尚が後世のために法華経を要約してくださったのであり、貴重な詩である。
法華経を良寛和尚要約し後世の為我らの為に


九月十二日(木)
昨日は法華讃を法華経の要約としたが、本日は全てを読むうちに、法華経と坐禅との調和、更に進めれば法華経修正ではないかと、思ふやうになった。
法師品の「荊棘室」で始まる詩の後の短文を飯田さんは
高い青空(法華一乗)を見せながら、ぱらぱらと降る雨(方便の説法)が、たちこめて薄暗くなっているさまに喩える。

と解説する。その次の「栴檀林下」で始まる詩も、短文を飯田さんは
さらに法華経を述べた仏がいらっしゃるのだが、なぜ顔を出さないのか。言栓不及、不立文字が禅の師でござるぞ。

これも同感。次に提婆達多品の「牛頭南」で始まる詩の最終行を
釈尊は、方便をもって仏法をいろいろに説かれたが、その方便だけに気をとられてはいけない。

これも同感である。「千里同風」で始まる詩は最後の二行で解説は
いっそのこと霊鷲山に上って釈尊の説法を聞くことはやめようではないか。さてこそ三千大千世界の人々よ。さあ、他に向って法を求めることをやめ、自家の宝蔵(仏性)の尊さを謳歌しようではないか。

これも同感。
安楽行品の「誰道人心」で始まる詩の「任重く路遠し 通塞の際」について
法華経弘通の大任は重く、しかも前途に多くの難関が待ちうけている。

と「法華経」を加へた。此の辺りから飯田さんは、法華経に偏向する。如来寿量品へ入り「或脱(説)己身」で始まる詩に付属する散文について
仏の入滅といえば無尽、常住すというのも無尽。霊鷲山といえば無尽、そこでの説法というも無尽。尽と無尽もまた無尽、なぜならば、無尽は無尽に任せられるから。まあ何をよんで無尽とするのか。衲はもともと、仏祖の眼晴を自己の眼晴にすること、つまり仏祖となることと解する。

ここは法華経を超える良寛和尚の意気が出てゐる。
「劫火洞然大千壊 我此国土長平安」で始まる詩の後半について
我が法華一乗の仏のいますこの浄土は、つねに平安無事である。

ここで再度、飯田さんの法華経偏向が始まる。分別功徳品に入り「従陀流通輿正宗」で始まる詩の此の部分について
経の論議をする場合に、やれ流通分(結論)だ正宗(本論)だなどということは、どうでもよいことだ。

ここは良寛和尚の法華経を超える勢ひだ。
随喜功徳品は詩が一つで、その散文の最後の部分は
妻が、侍女の名をしきりに呼ぶようなもので、もともと侍女には用事がなくて、ただ夫が妻の声に気づいてくれることを望んでいるようなものである。

ここも良寛和尚が法華経を超える勢ひだ。法師功徳品へ入り「眼八百 耳千二」で始まる詩の此の部分について
もし人あって、もしも法華経を受持し、読み、誦し、解説し、書写するならば、八百の眼の功徳を、千二百の耳の功徳をも得て清浄なる神通力を身につけることができる。

これは飯田さんの法華経偏向が過多である。常不軽菩薩品の「謗法之罪正如此」で始まる詩の此の部分について
法華経を奉ずる人たちを、もし誹謗する者がいるならば、罪をうること歴然たるものがある。

法華経本文では法華経を誹謗する意味でも、良寛和尚の詩では法華経の語が無いから違ふのではないか。如来神力品は、詩が一つで、その四行目(最終行)の「如何なるか 法華受持の人なる。」について
法華経を受持し、弘める人々とは、いったいどんなかたがたでいらせられるのかと。

詩の中に法華が出てくるのは久し振りだ。詩に付属する散文は「山高ければ石裂く。」で解説は
山が高く聳え立つ処にある石は、みな削げたっているが、それと同様に法華経の受持、弘教者はきびしい生き方をしていなさる。

法華経は手立てのみにて目的に非ざることを示しつつ 釈尊及びその弟子と達磨大師と秋津洲道元和尚近世は良寛和尚 それぞれのきびしき生き方ともに重なる

反歌  法華経は覚りの手立て修行者の生き方示す厳しさもあり(終)

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