二千四百六十八(朗詠のうた)飯田利行「定本 良寛詩集譯」(法華讃)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
九月七日(土)
法華讃を読む前に
古仏の 教法を留めしは

で始まる良寛和尚の詩で
もし人 みづから知了せば、
古仏 何んの施すところあらんや。
(中略)
愚者は(中略)文に因つて 疎親を分つ

つまり経文は、みづから知了すれば不要だし、愚者は経文に捉はれる。法華経も例外ではない。不立文字である。
その一方で、道元が法華経に傾倒したのは南宋に渡航した影響か。宋の天台宗から影響を受けた。宋の曹洞宗や臨済宗は、天台宗とは別で、日本でも臨済宗は天台宗の影響がない。
良寛和尚の詩に五時八経の語が見られるのは、和尚自身が渡航し中国天台宗の影響を受けたのではないか。法華讃最後の
一念 もし能く契はば、
直下に 仏地に至らん。

は、良寛和尚が覚ったことを示すと前に指摘したが、覚った和尚が法華経の一部文言から一般の人に覚りを促す。これが法華讃の存在理由であらう。法華讃の先頭にある
合掌して曰はく、
南無妙法華

は、その典型である。
法華経は天台智顗が五つ時八つの教へ分けるのち 最も勝れた教へとし しかし仏が亡くなるの遥か後にて作られたふみ(文)

反歌  仏との疎し親しを云ふ勿れ良寛和尚うた(詩)にて示す
「仏説十二部」で始まる詩の
強ひては疎親を論ずるなかれ。

である。

九月八日(日)
序本の「馬頭没し」で始まる詩は
釈尊が放つ白毫光は、地獄の実相(差別相対)すらも断ちきって絶対化された。
しかるに不覚にも、弥勒菩薩が、釈尊の法力について文殊菩薩に質問を呈したことよりして、言葉のやりとという教理のあげつらいに走り、(中略)幾多の宗派が、この娑婆に現出してしまったのである。

白毫光とは、個々の心に持つ仏のこととすれば、達磨大師が伝へた不立文字と矛盾しない。
方便品に入り
人々に箇の護身符あり
(中略)
会中もし仙陀の客あらば、
何んぞ必ずしも瞿曇の出定を労せん。

護身符は減る事がなく、仙陀のやうな賢い客がゐたならば、釈尊にお出まし願ふことはなかった、と云ふ内容である。これも不立文字である。しかしこのあと、悪水を頭に掛ける、の注釈を良寛和尚は書いた。詩の前文にも、飯田さんの訳注で
法華一乗の法を人に説いてあげようとするならば、かえって本具の仏性を失い兼ねないこととなる。

同感である。
だるまさん転んだといふ遊び在り 子供親しむ遊びにて 達磨親しむ習ひとも為す

反歌  文立てず達磨さん来て説きた道達磨転ばず目隠しもせず

九月九日(月)
本日は、昨日以上に覚ることを優先させる気持ちを持った。その状態で読むと、飯田さんの著書では不十分だ。法華経と聞くと、世間からは不思議な力があると思はれてきたが、あくまでも覚る手段である。再び序品に戻り、先頭の詩を小生の訳では
帽子を買ふには頭に合はせる
見聞したものは、見聞ではない
来ないのは来ることで、至らないのは至ることだ
名前が無い
これらを無量義と云ふ

つまり、経を読んでも分らず、覚る以外に無い。
二つ目の「夜半に漆桶」で始まる詩は
夜半に漆桶が光を放ち
明け方に木杓で失明する
失明すれば
今に至るも跡する見えない
少しの差を比べた

この解釈は飯田さんの逆である。飯田さんの解説に
『正法眼蔵』仏経「経巻をえてまなこをうる木杓漆桶あり」

とあるが、道元和尚は眼を得て、良寛和尚は眼を失ふ。良寛和尚は、若い時に道元和尚への傾倒が相当なものただった。しかしここでは、道元和尚の逆を云った。序品最後の詩は「日は朝々」で始まり
日は毎朝、東より出て
月は毎夜、西へ沈む
過去七仏の力だと云ってはいけない
元の光りとは、このやうなものだ
世の現象の少し優れたことを云はうとした。

つまり心の中に仏があることを云った。本日は小生が訳したが、飯田さんの訳とはまったく異なるものになった。

追記九月十日(火)
方便品についても、昨日と同じやうに訳を作ってみた。しかし読み返し、取り消した。飯田さんの定本に出定を願ふのがよい。昨日は序品なので、何とかなった。(終)

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