二千四百五十三(うた)柳田聖山「沙門良寛」その一
甲辰(西洋未開人歴2024)年
八月二十三日(金)
柳田聖山「沙門良寛」は一九八九年に出版された。聖山さんが良寛和尚渡航説を唱へたのは二千年だから、その十一年前である。
良寛は歴とした禅僧ですから、生涯漢詩をつくりつづけます。私たちの祖父のころまで、漢詩は特別のものではなく、あたりまえの表現手段だったのですが、今ではもう専門家以外に、歯のたたぬものになっている。
良寛和尚は漢詩、和歌、書が有名の為、僧では無くなったと誤解する人が多い。僧だから漢詩を作った。特に禅僧だから漢詩を作った。ところが
良寛の詩や書が好きで好きでたまらん人々が、やたらに独自の解釈を加えて、良寛を神さまにしてしまう。(中略)「草堂詩集」という本が、あまりよくは読まれん理由です。
さて
「草堂詩集」という名は、良寛が岡山の円通寺で、十年以上も修行のあと、さらに諸国放浪のすえ、漸く郷里の越後にかえってきた頃、(中略)みずから名づけたものとみてよい。
曹洞宗と法華経の関係について
宗祖道元がこのお経を重視したことから、朝と昼の食事のとき、修行僧が一斉にとなえる「十仏名」という唱えものに、「大乗妙法蓮華経」という経名が入ります。(中略)臨済宗の寺々では、「大乗妙法蓮華経」を加えません。
曹洞宗は十仏一経になる。これで第一章「草庵より草堂へ」を終了する。
八月二十四日(土)
第二章「一張の琴」は
まず、自筆本「草堂詩集」のはじめにある、「吾ニ一張ノ琴有リ」という、五言二十六句の長篇を、とりあげることにします。題がなくて、他の作品約五十首と共に、雑詩とよばれているものです。
で始まる。雑詩について
妙に一貫した何かがある。(中略)その原型は円通寺時代にできている。(中略)さらに、良寛の雑詩は、何処か「寒山詩」に似たところがあって、生身の現実を歌うよりも、一種の哲学や人生観を述べる(以下略)
それに対し
後年の自由奔放な、写実的な生活詩とは、かなりのへだたりがあること
聖山さんは、次のやうに推定する。
玉島の円通寺で(中略)師匠の大忍国仙から、くりかえしきかされた提唱のうちに、「琴ならし」の一節があったのではないか。
「琴ならし」は道教から出たと信じられてゐる。優れた琴を、帝王が呼んだ名人たちが歌はうとすると、不調和な音しか出ない。最後の登場者は琴から立派な音を引出した。その訳は、多くの名人は自己の事ばかり歌ったが、その人は琴に楽想を任せた。
聖山さんは、悟りの詩だとする。小生は、円通寺を出たあとの長い修行の結果として悟ったとする立場だが、根拠はないので何とも云へない。
琴の詩(うた) 良寛和尚悟りたか聖(せい)山(ざん)さんは考へる 我が考へは年月を経て悟る故少し異なる
反歌
聖山さん花園大の教授から京大教授FASへ
FASは久松真一が提唱し、F(形なき自己を知り)A(人類全体の立場で)S(歴史を超えた歴史を作る)。従来の禅は自己に集中し、これらに目を向けなかったとする。
八月二十五日(日)
第三章「曹渓の道」は、「草堂詩集」三首目である。「曹渓の道に参じて自り」で始まる。「拄杖、夜雨ニ朽チ」「袈裟、暁烟ニ老ユ」があるので
晩年の感じがするのですが、わたくしは玉島時代、修行の境地の深まりを、みずから歌うものと考えます。
「曹渓の道に参じて自り」を読めば、確かにさう云ふ解釈ができる。
若い良寛は、円通寺の生活で、六祖恵能の人がらを慕って、次のように歌っています。
憶在(二文字で、オモ)ウ、円通ノ時、恒ニ吾ガ道ノ孤ナルヲ歎ゼリ。
柴ヲ運ンデハ、龐公を懐イ、碓ヲ踏ンデハ、老蘆ヲ思ウ。
(中略)老蘆は、曹渓恵能のこと、「碓ヲ踏ンデ」云々は、六祖恵能がご祖に参じた時、米搗き小屋で労働するだけの、剃髪もしていない在家であったこと(以下略)
これはどうか。恵能が学識の無かったことは有名だが、出家はしてゐたのではないか。聖山さんは、臨済宗の寺に生まれ花園大の教授になるが、FAS禅に移った。京都大学人文科学研究所教授を定年後に、再び花園大の教授になった。学識を買ってのことだらうが、柳田さんは在家志向になった。
我が思ひ仏の教へ単純化 聖山さんは複雑化 どちらの道も着く地は同じ
反歌
聖山さん詩の背景に寒山詩恵能の詩など影響探す
反歌
我が思ひ似た表現があるとても思想にまでは影響持たず
八月二十六日(月)
第四章「薪行道」では
薪ヲ負ふて、西岑ヲ下ル、
西岑、路、平ラカナラズ。
時に息(いこ)う、長松ノ下、
静かに聴く、春禽ノ声。
について、唐木順三の説によって
良寛は耳の宗教家でした。宗教を大きく分けて、視覚型と聴覚型がある。臨済禅は、視覚型といえる。(中略)道元の仏教は、どちちらかというと聴覚型に入る。
「視覚型と聴覚型がある」は極めて有用である。止観で、行き詰まったたきは、もう一方に切り替へればよい。一方、良寛和尚が聴覚型だったかは不明だ。詩は聴覚型が多いが、これは山奥なので静かだ。小さな音でも心に響く。坐禅は両方の型で行ったのではないか。
止観には聴覚型と視覚型二つ合はせば完全型に
若い良寛は、龐居士(龐蘊)のことを、慧能と同じように尊敬しています。龐蘊は(中略)資産家の一人でしたが、早く財産の罪業に気付いて、本来無一文にかえります。
これは初めての情報だが、禅に造詣の深い柳田さんが云ふことなので、さうなのだらう。(終)
兼、「良寛和尚と同郷」(九十九)へ
「良寛和尚とその漢詩和歌」(百一)へ
メニューへ戻る
うた(九百九十二)へ
うた(九百九十四)へ