二千四百六十八(朗詠のうた)飯田利行「定本 良寛詩集譯」
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
九月二日(月)
柳田聖山「沙門良寛」とともに、飯田利行「定本 良寛詩集譯」を借りた。これまで飯田さんの著書は何回も取り上げたので、過去のものを読み返すと、その時々で小生の考へが変化する。
過去のものに捉はれず、現時点の感想を書かう。これが今回の目的である。
釈尊がなくなられて五百年たつと、後人が法門を分裂せしめるにいたった。
このときにあたり、竜樹大士(二~三世紀頃の印度の人で中観派の開祖)が出て、論蔵を著わして、八宗の祖師と仰がれた。
小生は、教義の複雑化が分裂を生むと考へるので、論蔵が引っ掛かる。飯田さんも
大士は、ただ仏道の弘通を任務とされたので、ここでは是非の論議はさしひかえておこう。
とする。それより
釈迦-摩訶迦葉-阿難陀-(中略)-菩提達磨
と続いた系図との整合性はどうなるか。この図に由れば、原始仏法が達磨まで続いたことになる。良寛和尚は大士としか云はないが、飯田さんは竜樹とした。これは正しいのだらう。世間で分裂した仏法を竜樹が「論を作りて(中略)唯道 もつて任となす」とは別に、原始仏法の流れが系図のやうにあったと解釈するのが、よいのではないか。
吾が師達磨が遠く西からはるばると来て、たちどころにありとあらゆるものが達磨の教えになびくようになった。(中略)大宋の末にいたって、(中略)五家が互いに鉾先を向け合い、また八宗が(以下略)
このあと道元が現れ
その正法を日本国中に雷鳴のごとく轟かせた。
しかし時を経るにつれて
ただ卑俗な歌のような教えだけが日ましに巷に充ちてきた。
良寛和尚一人の力では、どうにもならないと嘆く。
あるところの家に猫と鼠が棲んでいた。(中略)両者の罪の軽重を比べるならば、秤は猫の方に傾き、その罪は重いであろう。
鼠の害を器物に穴をあけるに留め、穀物を食ひ荒らすことに言及しないのは、名主の家の出身のあと出家し、円通寺は海運と漁業の街であったためか。しかし故郷に戻った後は、農民たちに親しまれた。
「本色の行脚僧(中略)本師を辞し」の本師について
国仙和尚とみるべきだが(中略)光照寺の玄乗破了和尚のことであろう。
とする。この詩には「玄海」もあり、
玄界灘をさすのではなく、ここでは大海原をさす。
とある。1989年の著書なのでこの解釈だが、渡航説の後は国仙和尚と玄界灘になる。このほうが素直だ。光照寺と円通寺の間に、大海原は無いのだから。
「丹郎 路に当るの日」で始まる詩は
ある美青年が要路の地位に就くや、御(お)上(かみ)でも民間でもその名をたたえ伝える。
は日本の事ではないだらう。日本では、武士の要職の家に武士は集まっても、民間は来ない。唯一、柳沢吉保は該当するかも知れないが
いまだ三十年を過ぎざるに、
ただ冷たきこと霜のごときのみにあらず。
には該当しない。
五時と八教と、
はどこで習ったか。日本では天台宗だけだが、良寛和尚は日本の天台宗と接点が無い。良寛和尚渡航説は整合性がよい。
次へ行き、偶作七首は良寛和尚が覚った証拠である。
これで第一章を終へる。
釈迦牟尼の教へを修め行ふの 良寛和尚ふるさとへ戻り少しはものぐさになるも周りに慕はれて 今やその名は高く広まる
反歌
今ひとが良寛和尚の考へを知るに合ふのは飯田定本
九月三日(火)
第二章に入り
道元禅師の教えに接してから何年たったか分らない。故山に帰ったのはよいが、怠け放題である。
故郷へ帰った後は、すこしものぐさになったとは云へ、周囲の人たちに慕はれた。すこしものぐさになる前の、故郷に帰る前は、どれほど坐禅や読経や托鉢に務めたかが分かる。何もせずぼうっとしてゐたと云ふ混同万嘘の出鱈目がよく分かる。ところがこの出鱈目を信じて、僧では無くなったなどと主張する人がゐる。
以前に『高僧伝』を読んだことがある。清貧そのものにしている私からみて、まあ何れの僧もかなり清貧のようであった。
和尚の修行振りが伺へる。
一たび円通寺をはなれてから、たちまちはや三十年も経ってしまった。
越後と備中とを中州が遠く隔てているため、誰れも消息など伝えてくれない。
良寛和尚は、円通寺に背いたことは絶対に無い。幕府の寺社奉行の支配下にある曹洞宗を超えただけだった。
この娑婆で、もっとも奥深くすぐれているものは(中略)正身端坐して不思量底を思量することである。(中略)我がはからいごとを絶するという素晴らしいことだからである。
この文章を読むと、生きる事が幸せなのだとわかる。つまり、生きて幸せだと感じることが仏である。それを隠蔽するのが貪瞋痴だ。
九月五日(木)
第四章に入り
ここに一つぶの宝珠がある。これは昔から未来永劫にわたり、人の身についているもので棄てるわけにはゆかない。
小生は今まで、これが仏性だとしてきたが、どうも具体性に欠ける。一昨日の最後に書いた「生きる事が幸せなのだ」。これで一切が解決した。
仏とは心にもともとあるものか または心が作るもの これらまとめて一言に楽しく生きることに仏が
反歌
生きる事そこに仏がある故に三つの障り超えて楽しく(終)
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